「M・バタフライ」を観て

 

 銀座セゾン劇場で先程上演されていた「M・バタフライ」をエム・バタフライと言う人は作品を知っている人で、マダム・バタフライと言う人は半可通の人でしょう、そして「M」がムッシュだと聞かされて訝しそうな顔をする人は演劇とは縁のない人で、最近そういった作品が増えたからなぁという人はやはり半可通の人と言ってよいでしょう。たしかにこの作品は実際にあったスパイ事件で、フランス人の男性外交官が中国人の京劇俳優を女性と思いこみ20年間も男性であることに気付かずに愛人関係を続けていたという信じられないような事実に基づいてのものですから、苦笑の醜聞を興味本位に取り上げ、西洋人が東洋人に抱く思い上がった幻想で味付けしたようなものと、正に半可通の受け取られ方をしてしまうのも止むを得ないかも知れません。

 西洋人は力強くたくましい男性のようなものであり、か弱くて女性のような東洋人は「口はノーでも目はイエス」という言い方があります。そのことから、結局は庇護を求め犠牲的な愛で尽くしたいと思っている。まさにプッチーニのオペラ「蝶々夫人」の中にこそ本当の女性が存在し、その殊勝さに哀れみを感じ庇護をする快感と献身的に尽くされる快感とを自分のものにしたいと思う西洋人の目には、真実は薄れる。だからこそ「西洋」は「東洋」を保護し導いてあげなければならないと「覇権」を正当化するような考え方と、「男性」は「女性」を庇護し面倒みるという「性差別」とを無意識にもつ西洋人の「おごり」がこの珍妙なる事件の起因の一つとする面白さをこの作品は見事に描き出しています。

 しかし「西洋」が「東洋」を、「男性」が「女性」をと描かれていく中に、「東洋」が「西洋」を、「女性」が「男性」をと逆の流れが見えて来ます。女性を熟知した男性が女性になりきって男性を手玉に取る様は、弱者であるはずの女性が強者であるはずの男性の力を巧みに利用して仕掛けた罠にまんまと導き、そこに女性の強さをありありと見せてくれる。仏人外交官ルネ・ガリマールは「完全な女性」が存在して欲しいという強い気持ちからオペラ「蝶々夫人」のアリアを歌う京劇女形ソン・リリンに「蝶々夫人」のイメージを重ね一目で「完全な女性」の存在を信じてしまった。女性を演じることに日々精進しているソン・リリンにとっては、女性に間違えられたことは喜びであったに違いありません。

 はじめから騙すつもりは更々無くても「女性」として振る舞えば猛虎のような西洋人を子猫のように扱えることから、男性であることを明かして接した場合と比べても、このまま「女性」を通したいと思うほど愉快であったことでしょう。  西洋人を手玉に取る心地よさから、暫くはこの「遊び」を続けていたいと思っていたのでしょうが、情勢が変わり保身もあって「スパイ」にならざるを得なくなり、成り行きから自分を責める気持ちは少なくて済むため、残酷なまでに職務に専念しサディスティックな快感に酔いしれていたのでしょう。男性優位は当然で「性差別」などとは考えたこともなく、妻子のために働いているのだから少々の我が侭は許されて良いはずと日々暮らしている大勢のルネ・ガリマールたちと、されど「母は強し」と巻き返しをはかるソン・リリンたち。

 まったく無縁な絵空事のように見始めたこの作品が、見て行くうちにぐんぐんと身近なものとなります。西洋と東洋も、男も女も、「強者」と「弱者」というふうに考えてみたら、しかも一段高いところから眺めてみれば、「強者」もたまたま「強者」なのであって「弱者」になる時のことを考えても「あまりいい気にならない方が身のため」、「求め過ぎないよう、程々に」と教訓めいた想いが身体を震わせました。生きて行くうえで如何にあるべきかの一つを教えられたような気がする作品でした。

 

 

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