長編小説「パパバリ」

− バリ島で聖者と呼ばれた日本人の南方関与 −

サヌール海岸の夜明け

 

( サヌール海岸の夜明け/南方雄飛の船出/シンガポールの日々/三浦襄/憧れのオランダへ/雑貨店主の野望/自転車修理工場パパバリ/日本軍民政顧問昭南島博物館植物園/インドネシアの夜明け )

 

 

 皇紀2005年(西暦1945年)の敗戦の日から3週間ほど過ぎた9月7日の早朝、バリ島サヌール海岸を遠望するデンパサールの高台。乳白色の濃霧が立ちこめていて、手の届く範囲ぐらいしか見えない夜明けだ。先程まで蛙の鳴き声が遠くに聴こえていたが、あたりが明るくなると一斉に鳴き止んだ。乳白色の濃霧が輝いて明るくなったのは、眼下に拡がっているはずのサヌール海岸の方向に、朝日が海の中から顔を出したためだろう。

 自室の前庭一杯に池が掘られていて、西隅には一段高く石組みがあり水浴用の大きな瓶が収まっている。屋根に降った雨が竹の中を抜いた樋を伝って、瓶に流れ込むようになっていて、瓶から溢れた雨水は池に注ぐように出来ている。バリの人たちは1日に3回から5回ぐらい水浴する習慣があるが、川まで行って水浴するか、厠を兼ねた浴室の様なところで瓶の水を手桶で汲んで被っている。戸外に水浴瓶を置いてそこに入る日本人は珍しいようで、首まで浸り涼んでいると木陰に人影や視線を感じることが頻繁にある。

 池には睡蓮が鮮やかな赤紫色の花を咲かせていて、水面を覆い隠すように拡がる葉とのわずかな間隙に、小魚たちが鼻上げし口をパクパクさせている。池の中央には薄い石の板を渡した橋があり、庭の南東の隅に午睡をするためのバレーベンゴン(東屋 bale bengong)がある。

 このバレーダンギンは居心地がよくて、夕涼みのまま寝込んでしまい、気がついたら朝になっていることがよくある。わが家はと言っても居候の身の借家だが、首都デンパサール市の中心からやや南東に外れた高台にある。市の中央通りであるガジャマダ通りから市内で一番大きいジャガッ・ナタ寺院の横を入り市民の憩の場となっているププタン広場を過ぎてクランディス川に至る手前で、バリ博物館の一部を接収し海軍の軍需部となっていた建物と通りを挟んだ瀟酒で小綺麗な洋館が住まいだったが、今は孤児と寮母が殆どを使用していて事務所兼応接室と寝室の二部屋のみが自宅になっている。もともとこの建物はブジャ宅のゲストハウスだったもので、ブジャ氏のご好意に甘えて30年以上も住んでしまっていたものだ。ブジャ氏の子どもたちはプカックジェパン(日本人のお爺ちゃん Pekak Jepang)と呼んでくれ、甘えてカックジェパと呼び慕ってくれました。

 周囲には人家はなく眼下左後ろから右前に流れる川筋と、中央通りが右折して東側下方を通りそのままサヌールまで行っている。このバレーベンゴンから南東はサヌール海岸までは椰子の林が靄(もや)で霞んで続いている。海岸は海面が朝日に輝いた時や夜間航行する船の灯か漁火がちらつく時に確認できる程度で、椰子林と空との間に海があることは分からない。その遥か先にそびえているはずのベニダ島と二つの小島は見えたことがない。

 昨夜は夕涼みのまま寝込んでしまったわけではなく、ぼんやり椰子林とサヌールの海を眺めていたのだ。いつの間にか星空になって蛙の鳴き声が響き渡り、いつの間にか明るくなると、待っていたかのように小鳥のさえずりに代わる。乳白色の朝霧が立ちこめている間は早朝の涼しさを感じるが、海から昇った太陽が高度を増すに連れ空気が暖かくなる。

暫くするといつもの酷暑が絡みついて来るのだが、今はただただまどろんでいたい時間である。立ち込めていた濃霧が薄らいで辺りの様子が見え始めたころ、突然の来訪者があった。これほど驚いたことはないし、これほど嬉しいことはない。

 このバレーベンゴンの西隣に小さな石造りの門がありもっぱら私の通用口になっているが、霧が晴れて扉が開いているのが分かり始めた頃に、開いた隙間から人影がうっすらと見えた。紛れもない日本人の声で「三浦さんですか」と問いかけて来た。「三浦ですけれど」と応えて顔を向けると、真っ黒に日焼けした爽やかな笑顔の若者が立っていた。細身の長身で英国人の防暑服を着ているので印度(インド)人の敗残兵のように見える。敗残兵と呼んではあまりにもぴったり過ぎて口に出せません。ここバリ島に滞在している日本人はいないはずなのに、あの若き衛生学者本間誠一郎君がひょっこり訪ねて来てくれたのです。

 「先月15日に戦争が終わったのを知ったのは、バトゥール湖畔のトヤ・ブンカ温泉でした。20年ほど前に大噴火があって、その時に出来た火口跡に鬱蒼と繁茂する苔の中に<夜光苔>を発見したところでした。有力な発光微生物を遂に手に入れたのです。」と本間君は誇らしそうに報告するのです。

 「3ヵ月前に小スンダ列島の調査を命ぜられて、ティモール島から島伝いに踏破しました。海岸沿いと河川敷そして大小の湖沼をくまなく調査しても発光微生物は発見出来ず、発見できなかったとの報告をするしかないと思った時に三浦さんの言葉を思い出したのです。」と本間君は言うが、私にはまだ事情が飲み込めなかった。

 「巴里(バリ)島には9千尺もある活火山があり、南国であることを忘れてしまうほどの冷涼な高原があると聞いていたので、異なる生態環境に最後の期待をかけました。これが見事に当たり、画期的な成果が得られました。」

 昭南島植物園博物館の羽根田教授から依頼された新種の発光微生物探しに成功して、興奮状態にあることは分かりましたが、日本が戦争に負けて明日はどうなるか誰にも考えられずいる時に、まったく関係無く自分の目的に邁進している日本人がいることに驚きました。あの若者が訪ねて来てくれて、日本国と日本人は安泰であると私は確信できました。 

 戦争を終わらせると天皇陛下のお諭しがあって、陸海軍は武装解除し民間人は帰国船を待つために指定された場所に集結していました。東印度支那(インドネシア)の独立を完遂させたいと武装解除に応じなかった者たちは、ジャカルタ方面に展開しているようです。そして再進駐して来た阿蘭陀(オランダ)軍と戦闘状態に入っている地域があると聞いています。

 ここ巴里(バリ)島にも濠太刺利(オーストラリア)軍と阿蘭陀(オランダ)軍が再進駐していますが、本間君の腕章に日本語と英語で昭南島(シンガポール)植物園・図書館の調査員であると記されているので自由な移動が保証されているようなのです。

 虎狩りの殿様と知られている徳川義親侯爵が昭南島植物園・図書館の総長を就いていて、高木兼寛海軍軍医総監創設の東京慈恵会医専衛生学教室から羽根田教授が客員研究員として来島の際に、教室の助手だった本間君は軍属の身分で教授に従って来たようです。羽根田教授は微生物学が専門で、昭南島陸軍防疫給水部から夜光性微生物の新種を南方地域で発見して欲しいと依頼されたのです。本間君は教授の指示で、馬来(マレー)半島と東印度支那(インドネシア)を中心に、夜光性微生物を発見するために動き廻っていたようなのです。

 私が座っているバレーダンギンは四畳半の広さも無く四隅に柱があるだけのものですから、石門の通用口から入って飛び石の上に立つ本間君は約6尺ほどの距離にいる。握手をしようと思えば、手の届くような距離である。「立ち話もなんだから」とバレーベンゴンに上がるよう勧めると、乗っている飛び石をそのまま母屋の方向へ進み、池に架かる石橋の手前で右折してから東屋へ飛び石を歩いて来た。バレーベンゴンの四面どこにも壁が無いわけですから、そのまま上がってくれても良かったのだが本間君の律儀な性格には苦笑させられた。日本軍の軍属の防暑服は少しも涼しく無く、しかも土地の人たちには兵士と区別がつきにくいのです。

 間違いられ易いのでは仕事に支障がでるとのことで、本間君は昭南島博物館に着任早々コナー博士の好意に甘えて英国人の防暑服を拝借していました。コナー博士は身分が捕虜なので、自由にしていて捕虜の同胞たちから妬まれるのを恐れていました。衣類や下着をたくさん所持していても、洗いざらして着古したようなものばかり着ていました。半袖半ズボンで肩章があって軍服ふうですが、もともとは軍服だったにしても英国人の探検服なのでしょう。

 肩章が残っているのは、肩に背負ったものがずり落ちない便利さのためでしょう。英国貴族のベーデンパウエル卿が印度(インド)での経験から始めた「ボーイスカウト運動」の制服とまったく同じで馴染みがあります。黄土色の厚手木綿の長靴下を緑色の木綿糸の房がついた靴下止でずり落ちないように留め、その緑色の木綿糸の房が膝のやや下の外側にぶら下がり洒落になっています。今まで半袖半ズボンの印象だけしかなく、足元がどんな風になっているかは知りませんでした。本間君が編み上げ半長靴を脱ぎ、その靴下止を丁寧にはずし、渾身の力を込めて長靴下を脱ぐ様子を見ていて、はじめてその仕組を知り、さり気なく面倒臭いことをしていると妙な感心をしました。 

 久しぶりになった素足の為なのかふらつき、空を泳ぐような大振りで座った本間君の足が目の前に投げ出された。見ると長靴下を履いていたあとが白く、日焼けした膝から腿は黒褐色で、どちらが地色か迷うほどです。

 「そろそろ朝食にしますが、ナシ(ご飯 Nasi )とミー(麺 Mie )でよいですか」と尋ねるといぶかしそうな顔をする。時に中華粥かブブル(粥Bubur)を食べることがあっても、いつも朝食にはナシとミーを食べていると言うと白い歯を見せてうなづく。

 孤児たちの世話をしてくれているニョマンさんは料理も得意で、子どもたちが喜んで食べるように工夫をするばかりでなくこの私の食事にも気遣ってくれている。ナシとミーを和食の飯と汁に見立てて、マンガ(マンゴMangga)かプパヤ(パパイヤPepaya)を薄く刻みマルキッサ(パッションフルーツMarkisah)かスマガ(みかんSemagga)の絞り汁で和えると爽やかな酸味の浅漬け新香となります。これにテッ(お茶Teh)がつくと殆ど和食を食べている気になるのです。

 わが家の名料理人ニョマンさんはすでに来客があったことに気付いていたようで、いつもの量の朝食と三人分はあるかと思える山盛りの朝食の計二人分を母屋から池の石橋を渡って飛び石伝いに運んで来てくれた。本間君をやはり国籍不明の外国人と思えたようで、けげんそうな笑顔で会釈し一言も喋らずに置いて行ってしまおうとした。

 「ニョマンさん待って下さい。ちょっとお座りになりませんか。」と声をかけると、気恥ずかしそうに顔を歪めバレーベンゴンの縁におずおずと腰掛ける。

 「ニョマンさん、このお客さんの名前は本間誠一郎さんと言います。日本人の生物学者です。インド兵ではありません。」と笑いながら紹介すると、「申し訳ありません。」と小声の日本語で答える。

  本間君はご馳走を前にして腹ペコ熊のように、口の両端から涎を垂らさんばかりにしている。うっかり気の毒なことをしてしまったと、慌てて箸を手にしても本間君は箸を取らない。「遠慮せずにどうぞ」と声をかけると、待っていましたとばかりに箸をとる。

 「食事をしながらお喋りをしてよろしいでしょうか」と言うので、吹き出してしまいそうになってしまった。本間君の律儀さは筋金入りだと思いました。

 「私は<夜光苔>とその光源である夜光微生物を発見しているので、昭南いや星嘉披(シンガポール)博物館へ戻り羽根田教授に採集した資料と報告書を提出しなければなりません。」と言い、「新嘉披(シンガポール)から日本に戻ることになるのか、そのまま留まることになるのか、私には決められませんが、許されるなら博物館に研究員として残り熱帯衛生学に携わりたいと思います。」と言う。箸を休めることもなく食べ続けているが、器用ににも滞りなく喋り続ける。若者の意欲と情熱に敬服する思いがした。

 「三浦さんはどうなさるのでしょうか。」

 「私はこの地に残ります。阿蘭陀(オランダ)軍が再進駐して戦争前の状況に戻ったら、東印度支那(インドネシア)の人たちに苦難を強いただけになってしまいます。私にはやらなければならないことがある。巴里(バリ)の親しい友人たちは私が日本へ一旦帰り、また戻って来るだろうと思っています。東印度支那(インドネシア)が独立できるかどうかの瀬戸際に、日本へ帰ることなどできません。」

 「敗戦国民が自分の意思を通すことなど難しいことでしょう。しかも、インドネシア独立のために戦っている旧日本軍の将兵が少なからずいることからも、簡単には行かないと思います。」と、本間君に喋っているのか自分に語りかけているのか分からないままに喋り続けてしまっている。

 「三浦さんは昭南島・星嘉披(シンガポール)の人かと思っていましたが、巴里(バリ)にはずいぶん以前から住んでいたんですねぇ。三浦商会はじめ数多くの事業を経営しているので驚きました。三浦さんはここ3〜4年ぐらい新嘉披(シンガポール)にいたように思うのですが。」

 「まったくバリに戻れず気を揉んでいたのはこの1年ぐらいでした。任務の都合で生活の本拠地が星嘉披(シンガポール)になっていたのは4年半ぐらいでしたねぇ。」

 「三浦商会の社長はじめ多くの事業の代表者は私になっていますが、殆どブジャ氏らバリの人たちに任せっきりなんです。軍の受注や委託ばかりだったから、代表者が日本人の方が都合がよかったのです。」

 「どんなお仕事だったのですか。」

 「もともと日本から自転車と日用品雑貨を輸入する会社と自転車修理と自転車を改装してリキシャと呼ばれる人力三輪タクシーを造る工場を経営していたのですが、日本軍が進駐してからは缶詰工場が主でした。日本軍の将兵が農耕用の水牛まで食べ尽くしてしまう心配があったので、台湾南部で生産過剰になっていた牛馬を食肉用に輸入して缶詰にしました。海軍に依頼して牛馬を生きたまま輸送船に乗せて運ぶことが出来たのです。軍の要請は缶詰生産だけでしたが、大量に出た皮革や骨などから皮帯や歯ブラシなど日用品雑貨を造る小さな工場をたくさん建設して雇用を作ったのです。」

 「巴里(バリ)島ばかりでなく小スンダ列島の島々を調査で踏破していた時に、私が日本人であると分かると三浦さんの話がでました。三浦さんは巴里(バリ)人を日本人と全く同等に扱ってくれると感謝の賛辞を聞かされ、困ったことがあって相談に行くと必ず親身になって面倒をみてくれたとヒンズーの神々と並び称される聖者の扱いでした。パパバリ(バリの聖者さま PapaBali)は、バパッバリ(バリの徳の高い僧侶 聖人 bapak)が訛ったもののようですね。カソリックのパパを意識して、パパバリと呼んでいるようなんですが。」と、聞きにくいけれど聞かずにはいられないというふうな顔をした。

「東印度支那(インドネシア)はイスラム教の国なんですが、巴里(バリ)島は別でバリ・ヒンズーが9割強なんです。後から追って来たイスラムは5分ぐらいしか定着できなかったのです。キリスト教も仏教も入るには入ったのですが、定着したのは合わせてもわずか1分7厘ぐらいです。仏教とキリスト教プロテスタントは6厘キリスト教カソリック5厘そしてその他が3厘なんだそうです。キリスト教は阿蘭陀(オランダ)支配の影響で、プロテスタントの数が多いのですが、頑張っているのはカソリックなんです。」

 「プロテスタントは個人と神との関係を重視して信者獲得に熱心にはならないのですが、カソリックは多くの信者と教会に集い 聖母を通して神を賛美することを重視しているようです。そこで不幸な状況にいる隣人に対して、慈善と福祉に熱心になっているのだとおもいますよ。」

 「私がバリに住むようになってから、プロテスタントの牧師が来島したのは友人の賀川豊彦牧師ぐらいで、宣教目的で来島したプロテスタントは殆どいないと思います。ところがカソリックの伝道師から神父まで十数人は来島しているでしょう。かつてバリには乞食と娼婦はいないと言われるほど豊かな島でしたが、戦争で多くの人たちが不幸になりました。カソリックの人たちは気の毒な人たちの為に親身になって面倒をみました。たいしたものだと感心しています。」

 「私も微力ながら気の毒な人たちのお世話をしていましたから、彼らは好意的に仲間扱いにしてくれて、意識的にバパッバリをパパバリと呼んで、意識的に広めたのではないかと思うのです。」と言って喋り過ぎたかなという気がして、本間君を見ると食べるのを止めて箸を置き、神妙な顔をして聞き込んでいた。

  「賀川牧師は貧しい人たちにとっては救いの神ですが、特高警察や軍にとっては目の上のタンコブだったのです。三浦さんと親しいと聞いて当然のように思える気もするのですが、不思議な気もします。三浦さんが内地にいた時に交友があったんでしょうか。賀川牧師と三浦さんが旧知の仲で、内地と南洋に離れていて交流があったのには驚きですね。」と、本間君は大いに好奇心が刺激されたようだ。

「私は仙台の近くに生まれて育ったのですが、中学へ進学するために東京へ出たのです。東京へ出て南多摩郡日野村の父宅に住み、立川中学を卒業し父の仕事である生糸と緑茶の輸出を手伝うか、さらに進学するならばと明治学院を見学に行った時に、明治学院を中退して神戸に新設される神学校へ移ろうとしていた賀川豊彦君にばったり出会ったのです。 初対面で初対面のような気がしないで、昼飯を食べながらの話が止まらなくなり、自宅に来て泊まって貰って夜通し語り明かしたんですよ。賀川君が明治学院に進むように勧めてくれたので、どんなところか知らないままに入学しました。亜米利加(アメリカ)と蘇格蘭(スコットランド)と阿蘭陀(オランダ)の3つの教派からの牧師が創った学校のようで、日本の若者に西欧文明の全てを教えようとする意気込みに燃えていました。私が和蘭陀(オランダ)船に乗れたのも、阿蘭陀(オランダ)へ行くことができ、ここ南洋に活躍の場を与えてもらうきっかけを与えてくれたのがその牧師たちだったのです。」

 「賀川君は神戸の神学校が開校するまで名古屋の近くの岡崎というところで農村伝道を手伝っていました。顔を会わせる機会は無くなりましたが、手紙のやり取りと年に2〜3回は会っていました。この時点ですでに賀川君は牧師になって貧民救済を目指していましたし、私は貿易立国が国民の暮らしを豊かにすると信じていました。」

 「賀川君には風格があって説得力があるから、信念だけでは成し得ない事業を次々と成し遂げました。世界的に知られた社会事業家になり、会議や大会で欧州へ行く時には必ず昭南島に寄港したので、旧交を暖めるばかりでなく互いの事業の将来について話し合いました。戦局が東亜細亜から南洋地域まで拡大してからは、進駐軍と軍関係者である日本人と現地の人たちとの調整に追われました。昭南島では植物園と博物館を破壊から守り、英国時代からの貴重な資料と 研究業績を保護する手伝いをしていました。また華僑の保護と疎開の調整をしました。密林を開墾して、自給自足の華僑自治区を作ったのです。」

 「三浦さんは昭南島の人かと思っていましたら巴里島の人だったわけですが、なんで昭南島の人をやっていたのですか。軍政部に徴用されていたのでしょうか。」と本間君が尋ねるので思わず苦笑してしまうが、衛生学者で学究一筋の本間さんに理解して貰えるように説明を試みました。

 「ご存じのように東印度支那を支配していた阿蘭陀(オランダ)は、開戦直前に在留邦人を強制送還をしたのです。昭南島・星嘉披(シンガポール)港に寄港した時に阿蘭陀(オランダ)軍憲兵隊の中尉が港湾警察の警備艇でやって来て、私に恩人ダエンデルス氏からの協力依頼の書状を見せて同行を求めたのです。事情は判りませんが懐かしい恩人の署名がありましたので、素直に応じて乗艇しました。」

 「警備艇は左前方の星嘉披(シンガポール)川を目指して進み、左から右へ大きく旋回して、吸い込まれるように川を遡りました。川を登り詰めると阿蘭陀人村(ホーランド・ビレッジ)があり、懐かしい恩人たちの私邸があります。かつて書生として住み込んでいて幾度もこの川を登り下りしました。このまま川を登り詰めるかと思い始めたところで下船、目的地が万金油花園(タイガーバウム・ガーデン)であることは、連れられて来られて分かりました。」

 「万金油花園は富豪胡文虎の私邸の庭園に、物語性を持った地獄極楽を表現した極彩色の建造物や塑像群を配したものです。坂を登って豪奢な門から一歩入ると目を見張らせられますが、館内は随所に中国の書画と調度品が配されていても西欧風の落ち着いたものでした。連れられて入った館内にはABCD連合国の軍人や行政官らしき人物が忙しく行き交い、緊迫した空気は秒読み段階にある対日戦に備えてのものでしょうから、阿蘭陀軍将校に連れられた日本人が彼らの目にどう映っているのかと勝手に想像し、緊張して萎縮して思考は停止し日本人として見苦しい態度だけは絶対にとるまいと自分に言い聞かしていました。」

 「奥まった応接室らしき一室に通されると、英軍将校と英軍の防暑服を着ていても一目で地方人と分かる雰囲気の英国人が緊張した表情で座っていた。その英国人は星嘉披植物園博物館のコナー博士でした。万一日本軍が占領するようなことがあっても、植物園博物館に蓄積されている文化遺産と学術資料が盗難に遭って散逸しないよう、人類の共通遺産として保護して貰えるよう生物学者でもある日本の天皇陛下に奏上したいという相談であり、昭南島に留まって協力して欲しいと頼まれてしまったのです。」

 「微力ながら昭南島に留まって協力することは出来ても、天皇陛下に奏上することなど平民の私に出来ることではありません。説明しても理解して貰えず、内地には米国で基督教平和使節団の一員として開戦回避工作に従事していた賀川牧師が戻っているので、相談して道が開ければという気持ちで帰国しました。賀川牧師はこの10年に、欧米歴訪のほかインドの世界宣教大会、豪州建国100年記念伝道などに招聘された帰路に昭南島星嘉披港に立ち寄り、5回も私を訪ねてくれていたので事情はすぐに理解しました。私が昭南島の阿蘭陀人村に住んでいたことがあるので、会うのは何時も阿蘭陀人村の恩人宅に決めてありました。賀川牧師は星嘉披港を通過する時には前もって手紙をくれるので、それに合わせて巴里島から船か飛行機で昭南島へ行きました。賀川牧師は中国や満州へ伝道旅行の次いでに比律賓(フィリッピン)に来たからと、次いでとは思えない距離を会いに来てくれたことがあります。」

 「日本内地へ行って 恐れ多くも"奏上問題"を画策しなければならないのですが、賀川牧師に尽力してもらって貴族院議員か帝大教授の協力が得らられば一途の見込みがあります。ところが開戦となったら昭南島に戻りようがありません。ところが同席の英軍人は軍政部の法務将校で、説明によると開戦と同時に帝国領事館は閉鎖されて瑞西(スイス)領事館の管理になるので、調整官として招請すればよいと言うのです。」

 「内地に戻って神戸港に上陸し、真っ先賀川牧師に会いました。賀川牧師は即座に帝大教授だった矢内原忠雄先生に依頼してみればと示唆しました。矢内原先生が数回実施した南方群島調査旅行の際にお会いしているので、その提案は的を得ていて流石と思いました。 出航に間にあったので乗せてもらい東京港を目指し、34年前に20歳で雄飛の志に胸膨らませて乗船した竹芝桟橋に降り立ちました。

 お茶の水のYMCAで矢内原先生にお会いし、引き上げ船で内地に向かう途中で昭南島に立ち寄ることになり、星嘉披植物園博物館のコナー博士から依頼された"奏上の件"を伝えますと、貴族院議員の徳川義親候爵にお願いすれば、今上陛下にも上聞戴けて適切な対応を強力に押し進めて下さるでしょうと請け負って下さいました。麻布富士見町のお屋敷に徳川候爵をお訪ねし、星嘉披植物園博物館のコナー博士から依頼された"今上陛下への上奏"をお伝えしました。候爵は馬来(マレー)半島で虎狩りをした武勇伝の持ち主で、馬来語が堪能で藩候(サルタン)たちと親交がある御方でしたので、言われるまでもなく当然やるべき事だお任せなさいと仰せになりました。

 さらに、まっ先に東北帝大の田中館秀三教授に行ってもらい、必要な手続きを済ませたら陛下の名代として渡星すると仰せになりました。」 喋り出したら一気に喋らずにはいられなくなって、喋っているとこの数年間の出来事が次々と浮かびます。

 「府下日野町の自宅には一足先に妻と娘が戻っていますが、父の気遣いで空家となっていた自宅の別棟が改修されて、新築のような部屋に荷を解いていました。父は生糸と日本茶の輸出を生業としていたので、敷地の北東で大通りに面して横浜の西洋館を模した事務所兼倉庫があり、その西に食堂と応接室を挟んで純和風の自宅があります。事務所兼倉庫の南には子どもが水遊びに丁度良いぐらいの小さなプールがありますが、風水に従って池を掘る代りで洋館に合せたものなのでしょう。私たちの住居となる別棟は南西の端にあり人力車の車庫と車夫の住居として建てられたもので、自家用車の車庫となり運転手の住居となっていました。

 戦時色が濃くなって統制が強くなり、自動車は供出され運転手は出征したので、それからは空家となっていたようです。真東の大通りまでは出入りする自動車のために石畳となって、自動車の出入りだけにしては立派すぎる大谷石造りの門柱があります。事務所の出入り口は北東の鬼門に当たるので、父は事務所前の門柱よりもあえて立派な門柱にしたようです。」

「東京市内から日野へは甲武鉄道で行けますが、駅から自宅までは遠く、多摩川を船で登った方が早く、船だったら自宅前まで行けるのです。多摩川と支流の浅川との合流点が洲崎のように突き出して”日野津”と呼ばれています。東京湾で獲れた江戸前の海産物がそこまで遡り、横浜から海外へ輸出される日本茶と生糸や絹布そして蚕の種紙が産地からそこに集積されたのです。船上から港を眺めると丹沢山塊と富士を背景にして、洒落た西洋館が立ち並ぶ様は横浜に負けない賑わいがあります。2里ほど川下に三条実美公爵の別邸対鴎荘があり、明治大帝がしばしば行幸し舟遊びをし鮎漁を楽しんだようです。

 日本内地へ戻った時にいつも感じることは晴天でも空が暗いことで、曇天では薄墨を流したような風景に違和感があります。ここ南洋の風土に慣れた眼には当然なのでしょうが、つくづく日本は遠い北の地と感じてしまいます。」

 「中国での戦争が長引いて、赤紙1枚で働き者が戦地へ行ってしまったこともあり、計らずも帰国したことに喜んだ父の気持ちを考えて、しばらく農業に従事することにしました。新選組副長土方歳三の菩提所石田寺は歩いて10分の距離にあり、その近くにある畑で陸稲と小麦や馬鈴薯と甘薯などと雑穀を作るつもりでいました。ところが引き上げ荷物の梱包を解き切れないうちに外務省から出頭依頼が届きました。昭南島領事館の調整官として出向するために、陸軍軍政部軍政顧問として応召するという段取りが出来ていました。コナー博士との約束があったので、行けさえすれば良いと考えました。また、巴里(バリ)島の日本人は全て引き上げていましたが、爪哇(ジャワ)島各地にいた多くの日本人は引き上げが完了しないまま引き上げ終了となってしまったので、豪州の収容所に移送されなかった人たちがどのような処遇を受けているかが気掛かりだったのです。昭南島を拠点にして動けば、爪哇(ジャワ)島にも巴里(バリ)島は眼と鼻の距離です。」

 「前の大戦で独逸(ドイツ)が統治していた青島(チンタオ)を日本軍が占領した時に、図書館や学校から貴重な書籍や文献資料を略奪し戦利品として内地の高校に配布してしまったのです。一方的に割り当てて配布したので、有効利用をされることなく散逸させてしまったのです。ところが今時の大戦前に同盟国となったので、文化資産を散逸させた愚行を厳重に抗議されたようです。

 在星瑞西(スイス)領事を通して星嘉披(シンガポール)総督からの親書が天皇陛下に宛て外務省に届いていたので、3日の猶予を貰って父に帰国の挨拶と応召で南洋に戻る旨を報告して星嘉披(シンガポール)に赴任しました。」

 「南洋各地の在留邦人を帰還させられないままに領事館などを閉鎖した外務省は、邦人保護のためのパイプを残したいという期待があったようです。昭和15年は皇紀2600年であるとして南洋各地で奉祝会が挙行され、爪哇(ジャワ)島だけでも7000人の邦人が祝いました。しかし外務省が準備した引き上げ船で内地に戻れた人たちは5000人弱で、帰還船に乗れなかった日本人はそのまま収容所へ入りました。朝鮮人と台湾人そして琉球人は帝国臣民であるとされていても帰還対象に見なされず、船に乗せて貰えなかったばかりか放置され、状況すら知らされもしなかったのです。そのために、彼らは阿蘭陀(オランダ)軍の労役として狩り集められ、残されは彼らの家族は路頭に迷うしかなかったのです。」

 「北支事変で勢いを得た陸軍は香港の東北300マイルの厦門(アモイ)に進出していたので、英国統合参謀本部でもようやく極東の防衛について本格的に検討を始めたようです。日本が南下しない前に新西蘭(ニュージーランド)から一艦隊をシンガポールへ回航することが計画されたようですが、欧羅巴(ヨーロッパ)の窮迫が英国にそれを許されなかったようです。

  ABCD包囲網に生命線を封鎖され、さらに海外資産を抑えられてしまった日本が、宣戦布告して南進して来るのは時間の問題だろうと考えていました。日本領事館は閉鎖されて領事館業務を代行してくれている瑞西(スイス)領事館内に居室兼事務室を置きました。植物園と博物館を中心にした文化財保護が主な役割であろうと認識していましたが、着任してみると「華僑の保護」が重要課題として待っていました。

 在星華僑は中国大陸で日本軍の侵攻を阻止するために戦う国民政府の蒋介石軍に義勇軍を送り巨額な戦費を醵出していたので、日本軍が侵攻して来たら真っ先に報復攻撃を受けると恐れられていました。」

 「本間君が上司である羽根田教授と一緒に夜光虫の研究で来星した頃には、軍政から民政に移行して市民生活もほぼ安定していました。海軍の第二南方派遣艦隊司令部付の調整官として召集され、蘭領東印度支那(インドネシア)の軍政顧問として巴里(バリ)島の古巣に戻り、軍に納入する缶詰を生産するための工場経営に着手していました。

 蘭領時代からここデンパサールに三浦商会の本店を置いて、日本から輸入して生活雑貨や自転車と人力車を販売していました。それらの組建てと修理の工場も経営し、全国各州に支店を置いていました。

 社長は私ですが実質的な社長は支配人のブジャ氏で、社員も日本人はごく一部で殆どは巴里(バリ)人と爪哇(ジャワ)人です。各地の王候(ラジャ)から推薦して貰った長男を日本人と同じ待遇で採用していたので喜ばれていました。台湾で買い付けた畜牛を海軍の輸送船で運び、製造された缶詰はその儘すべて陸軍兵站部の補給処へ納入されました。

 不眠不休の操業で得られた利益はこの地の人たちにとっては大変なもので、社員である長男に連続して特別賞与を支給するとその家族ばかりでなく親類縁者までが潤い、戦争が長期化して生活必需品から食料までが欠乏するようになっても三浦商会の社員と縁者はさほど困ることは無かったようです。」

 「戦況が厳しくなって昭南市民の疎開が検討されるようになり、疎開先となりうる母国を持たない華僑の処遇を昭南華僑協会と調整するために昭南島に戻りました。華僑たちがが納得した解決策として、ジョホール州とバハン州の境エンダオ河右岸の密林を開墾して自給自足の華人自治区を作るという構想が打ち建てられました。昭南市長と方面軍参謀の森中佐の私的顧問団である東京商大の赤松教授ら四教授の協力が得られ、30万人の華僑が無防備で大移動しました。英軍ダレー大佐のゲリラ部隊ダルフォースも華僑青年たちですから、襲撃される心配はありませんでしたが、頑固な憲兵隊本部と方面軍司令部の軍人たちを説得する方が厄介でした。初めて収穫した米は昭南神社に奉納され市庁舎でささやかな祝会が挙行され、エンダオは新昭南と命名されました。憲兵と警察を恐れている華僑たちは、領事館の調整官が直接担当したので信用できたのでしょう。」

 「巴里(バリ)島に戻るとスカルノ、ハッタ、デワントロ、マンスールの4名による集団指導体制(四つ葉のクローバー)は独立運動を展開していて、全国的な組織作りを始めていました。ラジャ氏から強く勧められて小スンダ建国同志会の事務総長に就任しました。三浦商会の支店網がそのまま全国各地で活躍している活動家たちを結び付け、中央からの指令が即日末端に届き、各地の状況が即日中央に届きました。植民地支配から解放して独立を支援してくれるはずの日本軍が、本当に支援してくれるだろうかと疑問を抱き始めた頃に、日本人が建国同志会の事務総長に就いたことはずいぶん励みになったのではないかと思います。」

 「25軍司令官山下奉文中将はかつて独逸(ドイツ)を訪問して、ナチス文化部隊の宣撫効果が絶大であることをつぶさに見て来ました。これに倣い南方攻略作戦には宣伝班と称する特殊部隊を用意しました。16軍の宣伝班は町田敬二大佐のもとに、作家の阿部知二、武田麟太郎、富沢有為夫、北原武夫、詩人の大木惇夫、画家の南政善、音楽家の飯田信夫、漫画家の横山隆一、小野佐世男、評論家の大宅壮一、映画監督の倉田文人、デザイナーの河野鷹思などの著名人がいました。主要地域の平定作戦が終了して軍政監部機構ができあがると、宣伝班は宣伝部と改名されて軍政監部の一部局となりました。

 宣伝部は直接的な宣撫活動のほかに、子弟の学校教育を通して住民教化や宣撫をおこないました。阿蘭陀(オランダ)時代はオランダ式学校と地方語による村落学校とに分かれていましたが、これを一本化して馬来(マレー)語を教授用語とする国民学校と中学校に変えました。青少年を対象とする社会教育や、イスラム指導者、官吏、地方行政官、教師など、住民の指導的役割を果たす人たちに再研修・再教育をしたのです。」

 「日本の思想と文化を理解するために必須であるとして、いたるところで日本語が教授され、東亜の共通語としてその普及に力が入れられました。宣撫に際して日本が使った論理の一つは、日本の運命と東印度支那(インドネシア)のそれとを同一視させることによって、両民族を運命共同体的に結びつけ、戦争への協力を獲得しようとすることにあったようです。そして共通の敵英米蘭をこの亜細亜(アジア)から駆逐し、理想卿たる大東亜共栄圏を建設するために共に闘おうと訴えたのです。「八紘一宇」や「亜細亜(アジア)は一つ」というスローガンが至るところで使われました。 亜細亜(アジア)の運命は戦争の勝敗にかかっている。戦いに勝つためにはすべてを犠牲にしなければならないという論理で、東印度支那(インドネシア)人も質素、倹約、自己犠牲、滅私奉公、勤勉に努め全身全霊をあげて努力せねばならないとしました。」

 「宣撫工作の媒体としては、新聞、雑誌などの刊行物、ラジオ、映画、紙芝居、さらにはワヤン(影絵劇)をはじめとする伝統芸能などあらゆるものが活用された。ラジオ放送はNHKが運営を委託されてアナウンサーや技術者などの人材を派遣して来ました。 新聞はジャワとボルネオでは朝日新聞社が、スマトラでは同盟通信社が、またセレベスでは毎日新聞社、セラムでは読売新聞社が委託されて、新聞発行に携わった。また、映画は日本映画社のジャカルタ撮影所が、宣伝目的のための文化映画やドキュメンタリー映画の制作を行っていました。」

 「草の根レベルの大衆を動員するにはキアイやウラマと呼ばれる在村のイスラム教師たちの力がもっとも有効的であると考えました。イスラム重視政策をとり、開戦前から作戦上の都合で養成していたといわれる日本人ムスリムを送り込んで宗教行政に関与させました。また住民に対して大きな影響力をもつキアイに対して、政治的な講習会を実施して思想教育を施し協力者にしたてあげようとしました。日本人ムスリムである鈴木剛は3回もメッカを巡礼して、モハメド・サレーというイスラム名も持っていたようです。軍政期には16軍の特務機関である参謀部別班の回教班に勤務し、対ムスリム工作を担当していました。」

 「フィリピンは アメリカの支配下で46年の独立を目標に、35年からフィリピン人を大統領とする共和国政府が誕生していた。フィリピン国民にとって日本のアメリカの打倒はほとんど積極的な意味が無かったのです。ビルマも開戦前からイギリスと、独立の日程についての話し合いが始まっていました。この2ヵ国に対しては早い時期に独立を許容しなければ、民心を引きつけておくことが困難と日本当局は考えたのでしょう。」

 「そのような事情のないインドネシアは取り残され、それをなだめるためもあって43年7月に東条首相がジャワを訪問しました。短い滞在ではありましたが首相がインドネシアにも配慮を示したということで、一定程度の役割を果たしたようです。しかし、ビルマは翌8月に独立し、10月にはフィリピンが独立した。そして、その11月に東京で華々しく開催された大東亜会議に、独立した二国は招待されたが、インドネシアの代表は招待されなかったのです。国家としての実態のない、インド国民政府のチャンドラ・ボースでさえ招かれたのであるからショックは大きかったようです。ただ会議が終わってから、スカルノとハッタおよびハディクスに訪日の機会が与えられて、宮城を訪れ天皇陛下への拝謁を果たしました。」

 「44年になると住民の生活はさらに悪化し、人心はますます日本から離れて行きました。ようやく独立問題に譲歩が必要と日本当局も認識するようになりました。しかし日本は資源が豊富なインドネシアを、永久確保することを決めていたようで、帝国領土に編入を考えていたようです。日本政府や軍の中央で検討されるようになったのは、東条内閣が倒れて小磯国昭内閣に変わってからのことだったのでしょう。3月にジャワ軍政最高顧問・林久二郎が独立許容を東京に具申しました。陸海軍と外務省などの間で会議を重ね、将来は独立を許容するものと決定し、9月8日に小磯首相が帝国議会で表明しました。」

 「そして、ようやく独立許容の正式の通達がスカルノたちに伝えられ、ラジオや新聞の号外で全国に知らされました。民族旗「メラプティ」と民族歌「インドネシア・ラヤ」の使用が許可され、日の丸や君が代と併用されるようになりました。

 45年3月に独立準備調査会が設置され、議長、副議長を含めたインドネシア委員62名と日本人委員8名によって構成されました。将来の独立国の領域は、旧オランダ領東印度支那全域に馬来(マレー)半島、星嘉披(シンガポール)、そして葡萄牙(ポルトガル)領東チモールを加えたものとする。大統領を元首とした共和制にすること、イスラム教を国教にしないことなどが決定されたほか、憲法草案と建国五原則(パンチャ・シラ)、内閣や最高諮問会議の構成などが採択されました。」

 「この決定が東京に届けられたのち、8月7日になって大本営はインドネシア全域に対して独立を許容することを決定し、そのための最終措置としてインドネシア全域の代表からなる独立準備委員会を召集することになった。そしてその辞令を受け取るために、スカルノ、ハッタ、そして独立準備調査会議長のラジマンの3人が、南方軍総司令官寺内元帥のいるベトナムまで赴いた。そして委員会を8月中旬に召集するという命令を受けて14日にジャカルタのクマヨラン飛行場へ帰り着いた。しかし翌15日には日本軍の無条件降伏という事態になり、日本の指導下で進められていた独立準備は頓挫を余儀なくされました。」

 「8月15日に日本が降伏したことは、インドネシアの指導者たちにただちには知らされなかった。しかし海外放送を傍受した急進派の青年たちは、スカルノに独立の宣言を求め、ジャカルタ近郊の義勇軍兵舎に拉致してこれを迫った。最終的にスカルノは同意し、ハッタと連名で17日朝インドネシアの独立が宣言された。ホツダム宣言の条項を忠実に守り、終戦時の現状を維持しようとする日本陸軍に抵抗して、インドネシア民族が独自に行った宣言であった。8月15日の日本の降伏は日本陸海軍部隊と在留邦人には知らされたが、インドネシア人に対しては当面秘密にされた。急進派の青年たちに押し切られたスカルノは、独立宣言文起草準備を日本陸軍の妨害を受けない安全な場所として、ジャカルタにあった海軍武官府の前田精少将が邸宅を提供し8月16日の夜を徹して行われた。」

 「8月17日午前10時にスカルノはインドネシアの独立を宣言した。そのニュースは、インドネシア人職員が実権を掌握したパンドゥン放送局から、その日のうちに全世界に発信されました。その翌日インドネシアの指導者たちは、かねてから開催が予定されていた独立準備委員会を召集しました。この委員会の記録をみると、名称も事務用語もまだ日本語のままになっている。インドネシアの独立がいかにあわてた状態で、しかも日本軍政期の準備の積み重ねの上に進めて行ったものであるかがよく分かります。」

 「すでに6月に独立準備調査会で採択していた憲法草案を採択するとともに、スカルノを大統領に、ハッタを副大統領に選出した。独立準備調査会にかわる議事機関として中央国民委員会を設置し、内閣の閣僚を選出し、中央や地方の政府機関を整備しました。

 現実には行政機関も事業所もすべて日本に握られていて、しかもポツダム宣言の条項に従い、連合軍がやってくるまで日本は終戦時の現状を維持する義務があったのです。

 独立の熱気に燃えていたインドネシア人たちは、そういった機関の権力をただちにインドネシア側に移譲するよう求め、官庁や事業所に働くインドネシア人職員は上司である日本人に明け渡しを求めました。」

  「アジアの解放のためと信じて戦争を戦った日本人にとって、敗戦になったいま、そのような形でインドネシアの独立に多少とも肩入れすることは、心情的にも極めて自然なことであった。多くの日本人は黙って翌日から出勤して来なくなり、実権はいつの間にかインドネシア側に移っていきました。政府、事業所を掌握した後は、軍事力を持たねばならない。やがてオランダが戻って来て、この独立宣言は認めないであろうことを予測していたからである。その時には武力をもって戦うために軍事力を組織しなければならない。すでに自然発生的に数多くの団体が可能な限りの武器を手に武装していた。そのような中で10月5日に正規軍たる人民治安軍TKRが設立されました。」

 「9月8日に英軍少佐が率いる連合軍先遣隊がジャカルタのクマヨラン空港に落下傘降下し、英軍第五巡洋艦隊が15日にようやくタンジュンプリオクへ上陸した。彼らは日本軍を相手に降伏とそれに伴う終戦処理のための一連の手続きを行いました。こうして日本軍将兵ばかりでなく在留邦人まで一人残らず内地へ引き上げてしまうのだから、これからオランダに独立を認めさせる戦いを始めるインドネシアを支援することができません。

 ポツダム宣言の条項に従って現状を維持する義務をもつ日本軍は、独立に協力できないばかりでなく独立への動きを抑えなくてはならないのです。」

 「気の毒な陸軍は蜂起した人民治安軍TKRと直接対峙しなくてはならず、アジアの解放のためと信じて戦争を戦った軍人の一部は部隊を離脱して人民治安軍TKRと行動を共にしているようです。それに対して海軍は、艦船を勝手に移動することは出来なくても将校は自由な行動も黙認されていて、スカルノ大統領と中央国民委員会を陰から支える者たちは少なくありません。海軍武官府の前田精少将の邸宅をはじめ海軍の施設内で独立準備調査会の頃から極秘の活動が持たれています。」

 「インドネシアが独立を不動のものにするためには、それを認めないオランダとの綱引きが数年は続くでしょう。全国各地で人民治安軍TKRと共に戦う日本人が少なからずいても、ここで殆どの日本人が内地へ引き上げてしまうと独立への戦意が削がれてしまうでしょう。このところ各地を廻って多くの人たちと会う機会を作り、この機を逃したら独立が遠退くであろう、日本は独立を完遂するまで協力するから一緒に頑張ろうと、士気を鼓舞して来ました。インドネシアは独立しなければならないし、日本は約束を果たさなければならない。信義をまっとうしてこそ日本人だと思います。」

 「私はこの国の独立が国際社会に認められ、この国の国造りに日本人が訪れ協力できるようになるまで、それを見届けるためこの地に残るつもりです。印度(インド)のガンジー翁のように軟禁されることもあるかも知れませんが、この地に残ります。三浦商会はオランダ時代からからのものであるし、小スンダ建国同志会の事務局になった時点で社長をブジャ氏に替っているので、オランダ軍が再統治に戻って来ても引き続き会社と事業と連絡網は安泰です。三浦という名前を残すのみでインドネシア人が経営するインドネシアの会社として、オランダ軍に接収される心配はないでしょう。会社の事業と連絡網に全く無縁になっても、私が顧問でも相談役でもなく存在すれば、日本人の老人がなぜ残留しているかを常に考えてくれると思うのです。

 ガンジー翁が存在しているだけで英国は独立を認める方向に動いています。印度(インド)が独立を果たすのは時間の問題でしょう。ガンジー翁には遠く及びませんが、インドネシア独立支援の一助になりたいと思っているのです。」

 ここまで一気に喋り通しましたが、うつ向き気味にうなずきながら聞いてきた本間君が突然驚いた表情をして私を見つめました。「三浦さんは内地に帰らないのですか。」と語気を強め、信じられないといった表情で言います。

 「ブノア港には在留していた邦人のみが集結しています。陸軍の守備中隊は海軍の艦船に分乗してジャワ島へ行って武装解除をするようです。私たち地方人(民間人)は手続きを済ませれば、引き揚げ船が入港する毎に順次乗船することになっています。私は昭南島で下船して、博物館の羽根田教授と合流します。バトゥール湖畔のトヤ・ブンカ温泉の火口跡で採取した夜光苔に有力な発光微生物を発見しましたから、今までに採取された数種の発光微生物よりも格段に強力ですから、大威張りで教授に報告出来ます。」

 と本間君はそろそろお別れの時刻が近づいたと言わんばかりの挨拶をしました。私は夢中になって喋りまくり時の経つのを忘れていましたが、お別れの挨拶をしなければならないと思いました。

 「本間君の採集旅行も軍の依頼に協力する調査研究だったのでしょうが、これから迎える新しい時代には純粋な学術目的で研究を発展させられるでしょう。誰もが国民総動員法で戦争遂行に協力させられた訳ですが、学者の純粋な知的好奇心で軍の依頼に協力できても、研究成果が応用される時を考えると複雑な気持ちになったでしょう。

 内地は焼夷弾の雨と新型爆弾で焼野原らしい、祖国を復興して新しい国を造るには10年や20年は掛かるだろう。しかし、これからの君たちの努力は平和な社会を築くためのものだから、けっして無駄な努力にはならない幸せだろうと思う。」と言い終えるのを待っていたかのように、意を決したように問いかけてきました。

 「三浦さんはここ南洋地域の事情に詳しく、大東亜戦争が勃発する前も日本軍が侵攻して軍政を布いた間も詳しくご存じでしょうからお尋ねしたいのです。私の発光微生物の研究は、兵員の夜間行動に際しての識別に応用する為だったでしょうが、共同研究者が陸軍登戸研究所の軍医たちだったです。その軍医たちが極秘任務で昭南島に来て、共同研究者である羽根田教授に一度も顔を見せることがなかったのです。陸軍防疫給水部昭南支所の軍医たちと会議ばかりしていたのです。防疫給水部の本部は満州国のハルビンにあり、病態生理学などの基礎医学研究分野に多大な研究業績を上げています。しかし実験の被験体が満州鹿や野豚など大型野性動物であると報告されていますが、スパイや捕虜で人体実験をしているとの噂がありました。」と、本間君は今まで喉に詰まっていたものを吐き出したように大きなため息をつきました。

 「私は混乱の中で所属は転々としましたが,昭南華僑協会の設立に奔走していた頃は憲兵隊の所属でした。佐官待遇の軍通訳官でしたから、かなりの軍事機密を見聞きできましたので、その噂の信憑性は高いと思います。憲兵隊に逮捕された容疑者で収監されたまま釈放されなかった者は、防疫給水部昭南支所へ移送された事実はあるようです。

 この戦争は数多くの犯罪を生みましたが、この人間の尊厳を無視した行為は第一級の犯罪だと思います。いずれ裁かれることになり、その組織犯罪の全貌が白日に晒されることになるでしょう。

 占領軍はゲリラの工作に苦しめられます。憲兵は住民の中から容疑者を逮捕しようと懸命になり、泥沼化して集団大量虐殺へ繋がることは、是非は別にして当然の帰結なのでしょう。非戦闘員を大量虐殺する作戦を立てる参謀たちも許せませんが、日本を誤った方向に導いた戦争指導者たちはさらに許せません。

 日本軍の組織構造の特徴として、間違った命令を出しても失敗の責任を取らなくてもよい構造になっています。天皇陛下の命令ということで正論を押し切っても、誤っていた判断の責任を取らなくてもよい構造になっているのです。

 あのインパール作戦の勝算は補給あってのものだったのですが、総力戦といいながら精神力だけで勝てると考えた牟田口簾也司令官の判断間違いで大敗を招きました。敗退路が白骨街道と呼ばれるほど日本軍兵士の死体が累々と放置されていたわけですが、この作戦の失敗の責任を誰も取らされずに済んでしまいました。

 判断に苦慮した大本営も南方軍も準備命令しか出さず、それを受けた15軍は準備命令が出たから決行して良いと解釈し、作戦準備で前線に緊張を作り、前線指揮官に暴走させたようなのです。量食と弾薬の補給が得られない状況では戦えないと独断撤退した31軍の佐藤幸徳司令官は、軍法会議で作戦の不当性を訴えようとしたようですが、発病による心神喪失として裁判にかけず、しかも佐藤中将は勅任司令官だったので病人とする公式の裁定はできず処分保留のまま閑職に追いやって決着させたのです。そして、陸軍大臣を兼務していた東条英機首相は神聖不可侵の天皇陛下と帝国陸軍の組織と秩序を守り通すために、内閣を解散させてしまったのです。

 八紘一宇の概念と大東亜共栄構想は、亜細亜の国々を戦争遂行に協力させるためだけのもので、その約束を果たすつもりは全く無かったのです。独立を果たした国々には追認しただけであって、昭南島を含めた馬来(マレー)半島と東印度支那(インドネシア)諸島は帝国の領土とし独立を認めるつもりはなかったのです。

 しかも信じて協力した人たちは労務者や苦力として作戦に従事させられ、劣悪な状況の中で大勢の人たちを死に追いやったのです。日本に一番協力的だったインドネシア人が、一番多く殺されたのです。これは、詫びて済むことではありません。

 日本という帝国が独善から犯した罪であり多くの日本国民も犠牲になりましたが、共栄のための独立を信じて戦った日本人は今もそれを信じて戦っています。いま日本軍は武装したままでも機能は停止していますから、装備のまま原隊を離脱した者たちは人民治安軍TKRと行動を共にして東印度支那(インドネシア)独立のために戦っています。だから私もこの地に残りたいのです。苛立つほどの義憤と信義を全うしたい気持ちからなのでしょう。恩人ダエンデルス氏には手紙で知らせてあり、ご理解を戴いています。氏は阿蘭陀(オランダ)人ですが、東印度支那(インドネシア)が独立することには賛成してくれています。しかし阿蘭陀(オランダ)は日本以上に極北の小国だから、南国の資源国を失ったら四半世紀は影響を受けるだろうと言っていました。

 昭南島に戻ったら博物館の皆さんに、今日のことを話して下さい。私がやろうとしていることを、多くの人たちが知っていてくれると思うと心強く気持ちが安らぎます。いずれ本間君は日本に戻るでしょうがもし私の家族を訪ねる機会がありましたら、やはり今日のことを話して下さい。家族には身勝手に見える私を俄に理解して貰えないと思っていますが、いつか解ってくれる日が来るだろうと思うと痛む心が幾らか和らぎます。」と気恥ずかしくて言い憎い一言を言い終えて、安堵のけだるさが汗ばむ身体を圧迫する空気の暑さを気付かせてくれました。

 「私は羽根田教授と一緒に昭南島に来ましたが、博物館の研究室で教授といつも一緒で、植物園の中を見て廻る時や採取旅行に出かけている時以外は常に教授と一緒でしたから内地での生活と殆ど変わりませんでした。大学にいた時は殆ど軍人を見ることは有りませんでしたが、昭南博物館の内外には軍人軍属が大勢出入りしていました。昭南特別市の日本人職員たちも軍属と区別がつかないような服装をしていましたから、軍人ばかりで地方人は殆ど見当たらず、息苦しい気分になっていました。

 教授は研究職一等級の技官で私は研究職三等級の技官でしたが、他は佐官級軍医と軍医学校か衛戍病院の衛生将校が入れ替わり立ち替わりで大勢が勤務していました。軍隊には大学と変わらないほど各分野の、学者や研究者がいることを初めて知りました。しかし、防疫給水部の支所が昭南島にもあるとは知りませんでした。防疫給水部731部隊は満州にあって、京都帝大派が東京帝大派を出し抜こうとする石井四郎軍医中将の野望の所産かと思っていました。しかし昭南島にまであるということは、陸軍が組織的に遂行している作戦ということなのでしょう。

 軍組織は機密ばかりで、知らされたことしか知ることが出来ないんです。登戸研究所へ出張で行った時に、米本土を直接爆撃するという巨大な和紙製の気球を作っていました。米本土が犯されたという心理的な衝撃を与える以上のものは期待できないと思いますが、背筋が凍るような不気味な研究をしているとは思えません。私の研究でも夜光微生物を大量に繁殖させて、精製して得た発光物質から発光塗料を作り、軍の夜間行動に利用するのだそうです。どれほど役に立つかを考えますと、滑稽にすら思ってしまいます。しかし、不気味な研究とは思いませんでした。

 すべては終わったのですから考える必要は無いのですが、共同研究者だった登戸研究所の研究者たちが731部隊の研究者だったと思うと、彼らの発光微生物の研究の本当の目的がどこにあったかと割り切れない気持ちを消し去れないのです。発光微生物で悪魔の研究が出来るとは考えられないの、馬鹿ばかしいとも思うのですが・・・。」と言い終えた本間君は、返答は不要と言わんばかりに帰り支度を始めました。厚手の木綿の長靴下をはき、靴下止めをはめ、半長靴の紐を丁寧に締め履き終えました。

 バレーベンゴンの西隣にある小さな石造りの通用口から路地に出て、表通りに面した三浦商会の玄関前まで見送りに出ました。そして玄関横の木陰に立ち止まり、本間君をブノア港まで送る社用送迎馬車を待ちました。三浦商会の本社屋は孤児院でもあり、子どもたちが後睡中で手が空いたのか、3人の琉球人の現地妻である寮母たちが見送りに出て来てくれた。琉球人は日本人として豪州の収容所に送られてしまっているのだ。

 送迎馬車を手配してくれたブジャ氏がその馬車に乗って現われ、本間君と挨拶を交した後に「三浦さんが日本から輸入した人力車を、私が自転車修理工場の工場長だった時にこのような馬車に改造しました。」と自慢そうに説明していました。

 ブジャ氏は肩からぶらさげていた写真機を手に取り、皆で写真を撮ろうと提案しました。玄関横の木陰にある縁台に私と3人の寮母さんたちが座りました。本間君は後ろに立って撮り、私とブジャ氏が入れ替わろうとした時にブジャ氏はフイルムが終わっていたことに気付きました。ブジャ氏との写真は撮れませんでした。ブジャ氏は本間君に「写っていましたら、三浦さんとの良い記念になりますので、昭南島行きの船に託します。」と言い別れの挨拶をし握手をしました。

 本間君は馬車に乗ると私を見て「三浦さんがバリ島でガンジー翁のように頑張っていると皆に伝えます。」と言い、笑顔で軽く会釈しました。私はこの本間君のような若者が、新しい日本を作ってくれるだろうと思いました。私は握手を求めると、本間君は腰を浮かせて横を向き、力強い握手で応じました。私は「よろしく」と一言だけ言い会釈しました。馬車が大通りを右折して姿が見えなくなるまで見送りました。

 

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