長編小説「凍土の遺構」

  長編小説「凍土の遺構」

 飛行機が高度を徐々に下げ始めた。「当機はまもなく・・・」とアナウンスはあったが上海空港に到着するのはまだ十数分は後だろう。続いて「当地の天候は晴れ、気温は摂氏12度・・・」と到着時刻とともに必要な情報を知らせてくれた。僕は3月にしては暖かいなと呟き、隣の座席に眠るガールフレンドの顔を覗き見た。
 昨夜は今日のために朝方まで仕事をしたので、眠くて仕方ないといい成田を飛び立つと直ぐに眠り込んでしまったのだ。飛行機はいよいよ空港に近づいたようで、ガタンと翼のフラップが上がった音がしてブォーと風圧を受けて機体が20センチほど沈み、左方に傾き旋回をし始めた。
 斜め左上の窓に目を移すと、輝く青空と眩しい陽光から一転して鉛色の世界になり、雲の水滴が窓ガラスを擦って矢のように右方から左方へと流れている。旋回につれて窓が下方に向くと大地がすーっと浮かんで来る。鉛色した海中のうす鉛色の巨大なテーブル・サンゴが急接近して来るようにも見える。
 テーブル・サンゴに見えたのは揚子江河口の大扇状地でありその殆どが緑一色の田圃と畑でそこに灌漑の水路が 縦横無尽に走っている。それがサンゴの筋のように見えたのだ。右縁にこびりついた巻き貝の塊のように上海の街並みがあり、市街地と近郊は開発で掘り返されて赤土が目立ち、巻き貝に浸食されてサンゴが死んでいるように見えたのだ。

 上海は今回の旅行の目的地ではなく、次いでのようなものだ。国内便の発着本数が多いのと寄り道先にできるので、経由地だけの大連よりはと上海にしたのだ。しかし、虹橋機場で飛行機を乗り換えるだけでは勿体ないので、一泊して上海ならではを観光しようと思ったのだ。旧日本租界へ行って内山書店跡と魯迅旧宅を訪ね、李香蘭・山口淑子を反逆罪で裁いた軍事法廷があった上海競馬場跡を訪ねてみようと考えたのだ。
 目的地は中国東北部・旧満州の長春とハルビンだが、誰もが「なんでまたァ」と不可解な顔や呆れた顔をする。知る人も少なくなったようだが、長春は旧満州国の首都・新京だったがハルビンにはあの七三一部隊など侵略と植民地支配の傷痕が数多く残されているのだ。いつか機会があったらら訪ねて確かめたいと思っていた事があり、ミュージカル李香蘭中国公演の公演先の一つが長春だから"追っかけ"もできるとガールフレンドの陽子が決心させてくれたのだ。

 僕の名前は安東洪一、好きな名前とは思っていない。名乗る時などには仕方なく「洪水のコウ」というと必ず笑いが起こったので、中学校の頃には説明し易い名前に変えられれはと思っていた。どうやら父は名前に意味を考慮したのではなく、ただ祖父の名前の一字をもらって名付けただけのようだ。
 大学中退のフリーターだったがガールフレンドに諭されて、また大学に入り直して学生になったばかりのところだ。25才の新一年生では高校を卒業したばかりのような同級生たちには馴染めないのではと冷やかされるが、教養課程は殆ど単位取得済みなのでまる2年は授業に出なくても良いのだ。となりの座席で眠り込んでいるガールフレンドの庄司陽子は同じ歳だが、大学を卒業して外務省に入って研修と留学を終えたところであっさりと退職したとのことだ。
 現在はフリーでガイドをしているが、結婚退職ということにして円満退職できたので、外務省の下請けといった感じで気楽にガイドをしている。主に来日した政府や関連企業の賓客が会議や視察で日程を消化している間に、一緒に来日している夫人や子ども達を歌舞伎や相撲に連れて行って退屈させないようにするのが仕事で、性分に合っているのか楽し いと言っている。

 二人の出会いは丁度3年前で、僕が大学へ退学の手続きをして正式にフリーターなったころだ。数寄屋橋ならぬ上野の杜で出会いしかも動物園でなく美術館で出会ったのだから、二人を知らない人は誤解するし知っている仲間たちは笑うだろう。しかし二人とも滅 多に行かない美術館へ同じ日に行き、偶然に出会ったのは事実だ。
 雨が降りそうな日に傘を持たずに外出し、軒下に降り込められていた陽子を傘に入れて あげたのだ。そして上野駅の公園口まで送るつもりがアメ横まで行って、小さな店を素見して歩いたのです。ちょっと知られたカレー屋さんの激辛に挑戦するというおまけがついて親しくなったのだ。久しぶりにアメ横へ行って見るつもりだというと、行ったことが無いからと興味を示した。激辛カレーを残さず食べると店の壁の金属版に名前を彫り込んで貰えると教えると、 絶対に食べて彫って貰うんだと頑張るのだ。金属版に僕の名前があったので、負けん気を 抑えきれなかったようだ。そして、ビールを飲むと辛味が消えるという秘訣を、素直に信じて頑張る気になったのだろう。初対面ながらお互いに馬鹿な真似を承知で楽しむ風変わりなところが気に入って、旧知のような親しみを感じたのだ。

 上海は鹿児島と同じ北緯31度線上にあっても、気候が大陸性のためか春が早いように 感じる。滞在した2日間とも快晴で気温も高く初夏のような暑さを感じさせたが、道端の 植生と果樹の花から東京より1〜2ヵ月ほど季節が先へ行っているようだ。 メイン・ストリートの南京路や豫園商場は、連日縁日のようで浅草三社祭りの雑踏のようだ。日曜日だけを休日にしたのでは人口が多すぎて、休日を楽しみたい市民たちが公園や繁華街などにあふれてしまうのだそうだ。そのため曜日ごとに休日を分散させて休む制度にして、集中による混乱を避ける工夫のようだ。
 ファスト・フードの店で出てきたミルクが豆乳だったのには驚いたが、それ以上に毎日交替で休日をとっている中国の人口の多さには驚かされた。開発と経済発展の著しい上海は農村部からの人口流入が激しいようだが、それを差し引いても人間の多さには驚かされる。群衆が流れ漂う路上や公園でも、若いカップルと大家族を引き連れたマイホーム・パパがよく目につく。それに比べて新宿のホームレスさんのような、就職の機会を求める流入者の姿は報じられているほど多くは無いようだ。職を目当てに多くが上海に流入していても、それが目立たないほど多くの人たちが溢れているということなのだろう。それにしても人の多さには圧倒される。

 上海のイメージは、黄浦江沿いのバンドと呼ばれる外灘地区に立ち並びそそり立つ摩天楼群ですが、そこに違和感なく超近代的な高層ビルが混殖されている様を見て50年前の馴染みあるものと今日のものとの違いに気付きます。(工事中)

 

 

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