「 一味違う回答コーナー 」

月刊「狩猟界」誌連載 

やさしいペットの精神科

    心理学コンサルタント  中嶋柏樹
やさしいペットの精神科 (7) 問題行動の解決法 その3
「無駄吠え」の行動変容
虐待に気づかぬ可愛がり方の反省

 

 欧米の親に比べて、日本の親たちは、子供を自分の所有物のように思う気持ちが強く、「子供の人権」という考え方にはなかなか馴染みにくいようです。欧米では「子殺し」と呼んでいるものを、日本では「母子心中」と言っていることからも、子供は親の身体の一部で、従属物ぐらいにしか思われていないことがわかります。「子は宝」とか「子はかすがい」という言い方は身近に見聞きしても、子供の人格を尊重するような言い方は見当たりません。「老いては子に従え」というときの「子」は壮年期の大人で、いわゆる「子供」ではありません。親たちは子供を従属物というふうには意識せずに、子供は親と同じ価値観を持っていて、同じ考えでいるに違いないと思っているようです。

 また、親たちは子供を自分の「身代わり」と考えて、自分にできなかったことをさせてあげようとします。大学に入れてあげたい、海外旅行に行かせてあげたい、盛大な結婚式を挙げさせてあげたいなどと奔走します。また、欧米に比べてわが国の若年労働者の失業率が格段に低いのは、いつまでも学生をやっていたり、フリーターや家事手伝いと称されて、成人後も親に扶養され続けているためと言われています。こういった状況に慣らされた子供たちは、苦労することなく遊んでいられることに味をしめ、「親が望むならば」と、いつまでも「素直な良い子」を決め込みます。自力で大学へ行こうと思ったら、特に優秀でない限りは「新聞少年」をやるしかありません。また、自分で家を持とうと思ったら定年まじかまでローンを覚悟しなくてはなりません。

 こういったことを考えますと少々煩わしく感じても、親の言うことを聞いていたほうが得であることは誰にも判断がつきます。そして自ら望んで、あえて苦労する必要はないと思っていると、そのつもりもないままに「ペット化」現象が密かに進行します。しかし、彼らが「ペット化」しても「家畜化」しても親の目の届かないところで好き勝手をして「自我の確立」を企てればよいのですから、不自由さや基本的人権の侵害を感じさせられる心配はありません。まさにホンネとタテマエ、表と裏を巧みに使い分ける日本人ならではの知恵のように思います。それに対してわが国の「ペット」たちは伴侶動物にはほど遠く、ペットと言われながらも愛玩動物にふさわしい可愛がり方をしてもらっていません。

 餌を与えないと死んでしまうからということで餌は与えますから、植木鉢の花に水やりを欠かさないのと同じ程度の可愛がり方、「飼い殺し」という嫌な表現がピッタリの状態が現状のようです。「ペットの一生も飼い主しだい」と言ってしまえばそれまでですが、それでよいということではありませんし、仕方ないことと言ってしまって知らんふりでは困ります。動物にも与えられている自然権、天賦の権利は人権と同じに考えなければなりません。基本である「自由」と「平等」こそ生殺与奪をにぎる飼い主が守ってあげなければならないもののように思います。人間の家族の一員となって生活を営むわけですから、「協調」は大切なことですが、立場の強い飼い主の側から一方的に求めるのはフェアではありません。譲歩を求めたら、求めた分だけ何らかの形で補償する心掛けを忘れてはなりません。

 承知のうえで虐待するのは論外としても、虐待していることに気づかずにいる飼い主にも困ります。可愛がっているつもりでいることが、可愛がっていることになっていなかったら互いに不幸ですが、たいがいの場合はペットの側のみが不幸です。ペットのためという「お為ごかし」は自己満足の「押し売り」か「いらぬお節介」です。特にペットが気の毒でならないのは、飼い主が教育熱心で厳格な躾けをなし遂げようとしているような場合です。吠えたら声帯を切ってしまい、噛んだら歯を抜いてしまうような「絶対に許さない」厳しい躾けは、犬が萎縮して、自発性を失わせてしまいます。また、カラスに鵜の真似を強いてカラスのよさを失わせてしまうような熱心さも困りものです。

 連想ゲームでなくても「イヌ」と聞いたら誰もが「可愛い」とか「甘える」とかばかりでなく「吠える」とか「噛む」とかも、たぶん連想してしまうでしょう。そして、犬は吠えたり噛んだりするものと承知していても、誰も吠えたり噛んだりする犬は好ましい犬とは思っていません。しかも、逆に吠えたり噛んだりしない犬は賢い犬だと褒められたりもしますから、賢くない普通の犬が噛むのはある程度「好ましくないけれど仕方ない」ことと思っているようにも思えます。犬の側からみたら随分と迷惑な話で、なんと人間たちは身勝手なんだろうと思っているに違いありません。もっとも、吠える犬は好まれないと言っても、ワンのひと鳴きも許されないというのではなく、いわゆる「無駄吠え」が嫌われるわけです。理由もなく吠えるのは許さないというわけでしょうが、理由があれば必ずしも許されるわけでもなく、許される程度を越えると「いつまでも吠えているのだ」と叱られます。

 また、「無駄吠え」と称されている鳴き方をする犬は、躾けのできていない犬であるとか、訓練の入らない馬鹿イヌと不名誉な称号を与えられてしまいますが、これもまた人間の勝手な言いぐさであって、イヌの側から見れば迷惑を通り越して「生活権の侵害」であったりすることが多いようです。無駄吠え犬の言い分を想像してみると、鳴かずにはいられない理由として、「お腹がすいた」とか「散歩に行きたい」とかいろいろあるのです。にもかかわらず、厳しい体罰で訴えを規制されたら、ただただ諦めるしかありません。また、少なからず存在する不幸な現象として、問題行動を止めさせるつもりで強化してしまっていることです。吠えたときにおいしいものを与えると鳴き止みます。簡単に鳴き止んでくれるから、鳴き止ませるつもりで吠えたときごとに与えます。すると、そのうちに肥満犬になっても鳴き止まなくなります。

 無知がこうした気の毒な結果を生んでしまう場合と、面倒くさがる気持ちがこうした気の毒な結果を生んでしまう場合とがあります。

 

 「無駄吠え」の行動変容

 

 本来、犬は「群れ社会」動物ですから、単独でいることを好みません。同じペットでも対照的なのがネコで、自由に暮らしていても「群れ」はつくりません。「野犬の群れ」という言葉を聞いたことがあっても「野猫の群れ」というのを聞いたことがないのはそのためです。「群れ社会」動物の犬が人間の家族と一緒に暮らすようになってからは、家族のなかに上下の序列を見いだして、自分なりの尺度で位置づけをします。「家長」はボスと見なされて上位に位置づけられますが、体力や能力が劣る小さな子供は下位に位置づけられてしまうことがあります。従順でおとなしいはずなのに、小さな子供には乱暴な態度をとることが時にあるのはそのためです。

 「群れ」でいる生活を実感できて確認できるのは、「スキンシップ」を主とした「コミュニケーション」です。「隔離」や「孤立」によって交流を絶たれると「不安」になり、あらゆる「拘禁反応」を起こします。そして「吠える」ことは「噛む」ことと並んで、その筆頭に挙げることができます。「不安」状態に耐えられなくなると、その不安を鎮めるために「強迫行動」が起こります。「なにかせずにはいられない」といった感じです。「無駄吠え」の行動変容を考えるとき、まず第一には「家族と一緒」に暮らせるようにしてあげることです。家のなかを汚されないよう、壊されないよう、工夫は必要ですが、キャンキャン鳴きとおしていたワンちゃんがぴたりと鳴き止むことがあります。

 家のなかで一緒に暮らすようになっても鳴き止まない場合は、家族に「放っとかれている」場合と十分相手にしてもらえいるようでも「満足していない」場合です。小食でちょっと食べただけで満足してしまう子供もいれば、たくさん食べても満足できない大食いの子供もいるように、「愛情を欲する量」にもかなりの差があります。人間の子供にも同じようなことが言えますが、人間の親は子供たちに分け隔てなくすべて平等にしてあげたいと考えています。あえて不平等に扱う必要があって、そうすることが「過不足ない対応」となることも承知しておきませんと、栄養失調や愛情欠乏症の子供ができてしまいます。十分に満足させようとしても、カンガルーのお母さんのように前にぶら下げてのべつ一緒にというわけにもいきません。もし可能だったとしても、ただ策もなく一緒にいたら飽きてしまい、また鳴きだすでしょう。

 もし、交流を求めスキンシップを求めてきたら、ただヨシヨシと撫でてあげるのではなく、まずは「マテ」で制止をかけて、「スワレ、フセ」でも「モッテコイ」でもやらせます。郵便受けから新聞を取ってこさせたり、散らかしたオモチャをかたずけさせるのもよいと思います。そしてできたら、十分褒めて、無理のない程度に優しく撫でてやります。その時の気分で長時間撫でてやると、どんなときにも長時間撫でることを要求し、そうしないと満足しなくなります。作業をやらせるのは、やらされて喜ぶからです。それは遊んでもらう以上に高度な喜びが得られるようです。コミュニケーションとスキンシップが満たされると、「無駄吠え」する気がなくなります。(つづく)

 

      

 

 

 

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