[ 一味違う回答コーナー ]

 

「季刊精神療法」第8巻第3号通巻第30号
金剛出版・東京 1982年7月 

心理臨床家と個人開業

 

 

 

はじめに

 心理臨床家が個人開業している例はきわめて稀であり、例外的とすらいわれているのは、精神科の医師ですら精神科のみで開業を維持することがなかなか困難であると推測されているためであろう。実際に個人開業をしている心理臨床家の例をみても他に本業をもち、サイドビジネス的に開業している者がほとんどで、医師や弁護士の個人開業のように社会の需要に適合し、経済的にも成立せしめている例はさらに稀であろうと考える。相談室などで行なう外来精神療法を心理臨床家の臨床活動の一つの大きな柱であると考え、それを志向し習練する者の数は多くにのぼるが、実際には官公庁や民間企業、病院等の枠の中に納まることにより始めて臨床活動が可能なのがわが国の現状である。

 その不自由さの中で心理臨床家は自己のアイデンティティ確立に日々苦闘している一方、志向するところのこの自立した心理臨床活動を可能ならしめようと模索する者の数は多いものと思われる。しかしながら実践を既存の施設外に求めるとなれば、まず経済的問題が障害となりその試みを妨げられるのである。筆者は相談室の開業をまず第1段階として経済的存立要件を度外視できる条件で実験的に試みて、もし可能性をみいだせるようであるならば第2段階として経済的にも成り立たせうるかを追究するよう段取りを組んだ。

 

 

 

外来精神療法施設の実験的試み

 筆者は東京大学精神衛生学教室在学中の昭和51年10月から52年12月までの約1年余、教室員の中の有志と外来精神療法施設の開設を実験的に試みることができた。それはあるきっかけからその場の無償貸与を受け、経済的存立要件をまったく配慮しなくてもよい条件を与えられたからである。そしてその一年余の試みの中でいろいろ体験し、充分意義のある知見が得られた。あらかじめ予想された事態に対処する経験をしたと同時に、まったく未知のできごととの遭遇に機を逃さず意志決定するという貴重な経験をした。 意志決定に手間どり、重大な過失を犯す恐れを感じ緊張させられた場面をも経験した。

 事故防止の意味あいから来室する前に医師等専門家の診断「みたて」を受けて、その紹介によって来談するシステムを組んだが、それでもなお直接来室する者や非専門家から紹介されて来る者があり、診断「みたて」の重要さを痛感すると同時に医療機関との連携を円滑にしておく必要性を感じた。さらにアクティングアウトによる緊急事態には、公的系統に従って速やかに入院させられる手段をとらなくてはならないことも経験した。しかもそのためにかなりの時間を費やさねばならず、相談の予約制維持に支障をきたす場合もありうるので、あらかじめその配慮が必要である。この試みで得られたことは、「適切できめのこまかい対応」が求められているということであった。公的機関の専門家からの紹介意図からも、直接来室した相談者の意図からもうかがい知ることができた。

 事例を概括すると、病院から依頼された退院後のアフターケアー、薬物療法を必要としない者への精神療法、また医療につなぐための援助、医療の効率をあげるための側面援助などがある。また過去の精神医療がもつイメージやそれに対する偏見や恐れから精神医療に近づこうとしない者や精神医療の対象となる前段階にあって治療敵援助を求める者たちへ窓口を開くことであり、非医療機関であってもさまざまな理由から公的機関のサービスを敬遠する者たちへ窓口を開くことであった。

 このようなことから、この種の相談室が本格的に経営を成り立たせて存在させられうるかは不明であっても、有料であっても来談し治療的援助を求める社会的需要が存在していることが確認できた。そしてこの試みの意図である、心理臨床家による外来精神療法施設の社会的存在基盤の一部をうかがい知ることができた。

 

 

 

相談室開業から成立に至る経緯について

 この種の相談室に対する社会的需要が存在することを知ることができたので、筆者は次の段階へと踏み切り、相談室を経済的にも成り立たせうるかを追究するため、昭和53年3月から個人開業を開始した。しかし初めから経済的に成り立たせることは不可能であり、不安もあったので、精神病院勤務と兼業という形をとらざるを得なかった。しかしそののち来談者の順調なのびが兼業を物理的に困難としたが、筆者の中の不安が根強く残り、専業に踏み切るまでに3年という年月を要した。昭和56年2月専従として活動を開始し、現在まで約1ヵ年余を経たので、そこで得られた知見を以下にのべるものとする。

 前述の「実験的試み」に対して、「個人開業」はなんら背景をも持たない個人の行なうことであるから、まず第1に開設者が「信頼」されることであり、ある人が家族や知人などを、「他のだれよりも、この人にまかせたい」と思ってくれるよう努力することが大切である。そして、その努力とは「適切な判断のもとにきめこまかな対応をし、約束をかならず守ること」である。そして紹介者に対しては、どのような対応をしたか、診断「みたて」、治療方針とおおよその治療期間、さらに終結した場合には終結したこととその転帰を報告し、来談者に対しては、その主訴の対してできるであろう治療援助をできるだけ明確につたえ、両者の間で「治療契約」を結び、互いに守るべき点、努力すべき点を確認する。さらに来談者の「本人」と「家族」に対しては、その「秘密」の取り扱いを厳密に区別し遵守することがきわめて重要な配慮である。

 

 

 

事例1  保健所からの紹介事例

 高2のA子は「思春期やせ症」の事例である。保健婦によると、嘱託の精神科医は2名いるが、過去の経験からその回答は要入院というか異常なしというかの両極端と予想されたので、他に紹介先が無く困っていたという。A子の母の説明によると、極端な体重の減少と生理が止って半年近くになることに不安を感じ、婦人科で検査を受けさせたが異常なしといわれた。A子は体重のコントロールがきかなくなってしまったと毎日泣いているし、このままでよいはずがないのでなんとかしてほしいという。

 A子には体重の調節ができるようになるまで指導すると約束し、なぜコントロールがきかなくなってしまったか原因をさがそうと面接を開始した。A子によると、祖母と母の折り合いが悪く、今まで別居していたが、祖父の死去で同居するようになり、母は勤めに出るようになってしまった。両親は喧嘩ばかりするようになり、母は父を避けて家にはほとんど寝にもどるだけといった生活になってしまっていた。家事いっさいはA子がやるようになってしまい、祖母と父には愚痴や厭味をいわれ、弟妹の面倒をみさせられ、やりきれない気持だという。

 A子は両親に仲直りしてほしいとの希望を持つので、A子の了承を得てその旨を母につたえると、母はA子がそんな思いをしているとは気付かなかった、夫への気持は変わらないが家の中が円満にいくよう努力するという。家の中が落ち着くにつれA子の不安も軽減され、体重はA子が理想とする体重より5kgもオーバーしたところで落ち着いていたが、それを気にするふうもなく「もう瘠せようなんて馬鹿なまねはしません」といい明るい笑顔をみせた。そして最後に祖母が昔精神病院に長く入院していたことがあり、とても気むずかしい人で馴染めず、体重の調節がきかなくなってしまった時、自分も精神病になってしまうのではないかと、とても恐ろしかったという。

 A子を紹介してくれた保健婦から、部内の保健婦研修会にて事例検討したいから、一緒に報告してほしいとの依頼があり、それをきっかけにして保健婦たちからスーパービジョンの依頼や患者の紹介があるようになった。そして、その保健婦たちが他の保健所への転属があるにつれ、拡がりが進み、保健所によっては紹介先機関として認定してくれ、患者家族会等関係団体へのつながりを持たせてくれるようになったのである。

 

 

 

事例2  教育相談所からの紹介事例

 中2のB夫は「閉じ籠り」の事例である。保健所の嘱託の精神科医の往診をうけたが、自室のドアに鍵をかけ入室を拒んでいるため診察はできず、登校拒否症、精神分裂病の疑いとの診断をうけていた。しばらく様子をみるとのことだったが埒が開かず、母はいくつかの相談機関をへたのち教育相談所でB夫への接し方を指導してもらっていた。教育相談所の相談員から訪問依頼がありその紹介では、両親の離婚問題が数年来こじれていてB夫は母について離婚に賛成していたという。しかしB夫が中学に進んで新しい級友に馴染めず、“ずる休み”をした時、父と母は一致団結して登校させようとした。

 B夫は母の協力ぶりに驚き「裏切り者」と激しくののしったという。B夫は家庭訪問のありそうな時間帯は鍵をかけて籠っており、深夜早朝に自室から出てトイレへ行ったり両親の部屋のドアを蹴飛ばし「ババア死ね!」と叫ぶというので、B夫の寝込みに接触を持つようにした。目を覚ましたB夫は驚き慌てふためいていたが、数回の訪問で落ち着きをとりもどすにつれは無しに応じるようになった。室内は暗くゴミと腐臭に満ち、一見分裂病者の室内を思わせた。頭髪はのび垢汚れたパジャマを着、夜昼なくTV・ラジオに耽っているようだったが、接触は予想外に良好だった。B夫が今困っていることをたずねてみると、「両親の顔を見るとムカつく、わざとらしいことをいわれると腹がたつ」という。不眠感と焦燥感を認めたので服薬をすすめ、両親に病院へ行ってこさせることを了承させた。

 服薬をはじめると生活に改善がみられ、散歩のすすめにも応じるようになったので、なぜ一年以上も閉じ籠り生活をしていなければならなかったかをけかせてもらいたいからと相談室への来談をすすめた。来談するようになると、裏切った母への不信感を訴え、感情を抑えられなくなった自分への不安を述懐した。復学については触れないようにしていたが、自ら決意し登校するようになった。

教育相談所の事例検討会でB夫を担当した相談員と二人で報告し、今まで関りのあった機関へ終結とその転帰を報告した。教育相談所の相談員と学校で教職にある兼任相談員は多くの事例を担当せざるを得ない状況にあり、しかも治療方針を見出せず抱え込んでしまっている者が少なくなく、その者たちから私的にスーパービジョンを依頼されるようになった。

 

 

 

 

事例3  医師からの紹介事例

 小5のC夫は「ヒステリー」の診断をうけ「心理指導」の要ありとして紹介された事例である。学校で突然目がかすみ階段から転落しそうになったことがあり、近医から精査の要ありとして大学病院を紹介され、眼科で検査を受けた。検査結果にムラがあり測定不能だったが眼科的には異常ないといわれ小児科にまわされたという。小児科の外来担当医は筆者と以前より懇意で、その紹介状によると、眼科では「ヒステリーの疑い」と診断されており、心理検査を施行したが未記入部分が多く、心理的問題を疑いつつも手掛りがえられなかった。しばらく通院させ心理治療を試みるつもりだったが拒否されたので、筆者に心理指導してほしいと依頼してきた。

 C夫は両親に連れられて来室した。なぜ心理指導が必要なのかたずねると、父は大学病院の先生から病気ではないといわれて以来家の中で荒れるようになってしまったといい、母はその言葉を否定するように、「大学病院で精密検査を受けても異常は無かった、そもそも眼科の検査を真面目に受けなかったから、こんな大ごとになってしまった」と父が愚痴ったためで、その愚痴る父の言葉を聞かされたC夫が、ものすごい形相をし、それ以降荒れるようになってしまったのだという。C夫は学校から帰っても勉強はしなくなり、モデルガンを打ち鳴らし襖を穴だらけにしてしまっている。注意すると荒れるので手がつけられない、時折冷たい目つきでにらむので恐ろしいと両親はいう。

 今までのいきさつから両親はC夫を詐病扱いをしており、小児科ではヒステリーの診断があったため、検査に重点をおきC夫ぬきで医師と両親で話を進めてしまったことに問題があるよう筆者には思えた。C夫に一人で通ってこれるかとたずねるとうなずいたので、毎週通うことを約束させた。今一番困っていることはとたずねると、上位にあった成績が最下位に下がってしまったので、父が家庭教師をつけようとしていることだという。つけないようたのんであげることもできるがというとC夫は、たのんでくれなくてもよいという。成績がもどるよう努力するのかとたずねると「できないが、そのうちできるかもしれない」という。

 C夫の意志を尊重し、毎週電話してくる父に時期を待つよう説得につとめた。C夫は毎回鞄の中にモデルガン、ガン雑誌、カタログをつめ込んできて、打たせてくれたり、細々と説明してくれた。父は毎週かけてくる電話で、C夫が荒れなくなったと喜んでいたが、勉強する気を起こさないので困っているという。C夫が連続して2回来談を休んだことがあり、また荒れるのではないかと心配し父が執拗に相談室へ行くようすすめると、「相談室へ行ったって勉強する気を起こさせてもらえるわけではない」という意味のことを口走ったと父はいう。そして、2,3日してから突然勉強をしはじめたとの報告があった。

 C夫が2週あいだをおいてまた来談したので、なぜ勉強する気になれたのかと聞くとそれには答えず、「勉強しなくなると父は狂ったようになり、勉強をしはじめたら気の狂ったのが直ったみたい」という。C夫は父の無理解とC夫を無視した干渉に怒りをもっていたが、筆者との関りで安心して父と充分戦うことができ父に距離をもてるようになったから荒れは治まったのだろう。さらに筆者に勉強する気を起こさせてもらいたいと期待をもったが、一人前に扱ってほしいと意志表示をしそうしてもらったために言いだせず、自分でそうするしかないということにようやく気づき、自発的に勉強をやり始めたものと思われる。

 治療の終結とその経過を報告すると、児童精神医学に興味をもつ小児科医と精神科医で「児童心理研究会」を作っているので、その症例検討会にC夫を報告してほしいと依頼された。その中で「正しい診断ができていても治療への関りが不適切だった」と精神療法的アプローチの重要さがよくわかったという意見がきかれた。その後、大学病院とその関連病院から「要心理指導」ということで患者がまわされてくるようになったが、医師から紹介された場合かならずくるといった印象があり、心理臨床家は医師に信頼され認められることがきわめて重要で不可欠なものと思われる。

 

 

 

 

事例4  企業人事担当者からの紹介事例

 社内で将来を有望視されているD氏が人事配置に関することで意見具申をし、聞き入れられないと社長や重役の自宅に文書を送付し、さらに「不合理を露く」というビラを配布してしまったという。問題化をねらったD氏だったが、自宅謹慎を命ぜられ、予想外の会社の反応に驚き困惑し、しょげかえっているという。嘱託の精神科医と某大学教授の診察を受けさせられ「人格異常、精神病とは認めがたい」との診断を受けてしまったが、D氏をよく知る人事部長は「このままでは依頼退職か懲戒免職になってしまう。精神科医の診断書ではD氏を救えない、D氏を救える診断書を書いてくれる心理学者はいないか」ということで健康管理室のカウンセラーを通して、数カ所あたってみたが引く受けてくれるところは無く困っていたという。

 人事部長とD氏が来室した。その依頼に対して「司法精神鑑定書」に準ずるような意見書は書けるというと、両氏ともぜひやってほしいと懇願した。週1回の面接で2,3ヶ月かかる旨伝えると、人事部長は休職期間もそれくらいになるだろうから、その間月に2回程度D氏からその時点での心境を報告書にして提出してもらえば、社長や重役は説得できるという。

 D氏を毎週来談させると、妻、姉、弟、母さらに小、中学と親しかった友人を連れてきたので、D氏の生育歴、人格形成に関する証言を聴取することができた。D氏が非常に優秀な少年だったこと、父が土地の有力者だったことから、自己中心的で協調性に欠ける点がみられても、担任教師からも注意をうけず、また特に失敗経験もなく一流大学、一流企業へと進んでこれてしまったことから、一貫して特別視され保護された環境で生長してきていたことがわかった。そして今回の事件はD氏にとって生まれて初めての挫折体験であり、未知との遭遇におびえているむきすらあった。D氏に誓約させ、行動に制限を加えることで職場に復帰できるとの結論を得、意見書を提出した。それから1ヶ月して復職が決まったとD氏から報告があり終結とした。同行したD氏の妻は、「別人のようになり、家庭を顧みられる夫になってくれました」という。

 以降引き続き、嘱託医から分裂病であろうと診断されていても入院させられぬまま放置されている者など難治例、処遇困難者、特に医療と法律の間にある問題行動をとる者への治療的アプローチの依頼があるようになった。またD氏から縁者知人で問題をかかえる者を紹介してき、「紹介された者が紹介する」という確かなルートが作られるようになった。

 

 

 

 

考   察

 筆者は外来精神療法施設の実験的試みで得られた経験にもとづき、精神衛生相談室の個人開業をした。社会的にまったく無名の新人であることから、宣伝・報告は禁忌の一つと考えた。精神衛生に関する悩みを抱えた人たちがそれを放置しておけないと考えるようになり、既存の精神医療機関や公的な相談機関では対処しきれない部分が増大した。社会に潜在している心理臨床家をさがし求める気運がすでに存在していたが、信頼にたる心理臨床家をえらび出す手掛り・基準が無いために苦慮し、信頼できる人からの紹介にたよるという方策が一般的となっている。

 そのようなことから、開業する上での心構えとして「紹介されること」がすべてであり、信頼を得、紹介者が増えてくることが社会的需要に適合し、その存在と価値とを容認してもらえるものと確信した。しかしそれを待つだけでは具現化しない。積極的なアプローチも必要であるが、むやみにすれば拒絶か黙殺されるだけである。アプローチをするにあたり「みたてる」必要があり、「みとおす」必要がある。基本的には「待ち」であるが、いったん必要とされるであろうサインをとらえたならば、それに適合した対応をとることが「極め手」である。

 ある区役所で相談を受けている保健婦が数名、様子を知りたいと来室したことがある。互いに現場の苦労ばなしをしているうちに、引き連れてきたリーダー格の保健婦が他の保健婦よりも今まで精神衛生活動に縁がうすかったように思われたので、後日たずねると身内に治療を拒む病人がいるのでと言いだした例や、気軽に様子を見にきてくれたと思える精神科医が、実は彼の息子が分裂病で自分の勤務する病院などには入院させられないと困っていた例などもある。馴染めず警戒的だった段階から、馴染みがでてき、かかえていた問題をためしに相談してみたら、納得いく対応をしてくれ満足いく解決をしてくれたということがあると、そこに信頼感をもってもらえるのである。

 この過程は公的機関のスタッフと信頼関係を作る過程をのべたものであるが、この過程を端的に表現すると語弊があり誤解をまねく恐れもあるが、分裂病患者に精神療法的アプローチをし、ラポールを形成していく過程にきわめて酷似していると思える。さらにいえば、分裂病への治療敵接近方法をそのまま踏襲することにより、失敗なくして数多くの信頼関係を作りえたのではないかということである。

 また公的な立場で相談業務に携わる者たちはカウンセリング技術に熟達し経験豊富ではあるが、それはある範囲内であって、それを超えたものは(その対応に不満をいだきながらも)精神科医にわたすしかないと考え、そうしている。しかし自分で扱えると思えるものと、精神科医にわたすべきと考えるものとの中間部分―たとえば登校拒否、家庭内暴力など―の増加に苦慮し、精神科医でも無理だと思いながらも依頼するしかなく、結果的に放置されてしまい、その家族と一緒になって困惑しているしかないという例が少なからずみられている。

 これら相談業務に携わる者たちが、精神病疾患者との関りがうすく、あったとしても入院治療中がブラックボックスであるため、その人を理解することができにくくなっている。たとえ入院治療中に治療的関りがもてる立場にある者でも、主治療者である精神科医が治療方針や入退院の決定をし、その決定根拠を知らせてもらえることがきわめて少ない。時に「私だったら」こう判断し、こうしたほうがよいと確信することがあっても、精神科医と判断が異なる場合にはその実行は許されず、そのまま関わっていても治療者としての伎倆が練磨されないのである。

 したがって専門家として経験年数を誇れるだけ重ねてみても、治療者としての伎倆は練磨されぬままにあり、つねにその部分に不安をいだき、時に充分関われる部分がありながらも、すぐに精神科医にわたしてしまったり、また逆に精神科医にわたさねばならない状況にすでにあるにもかかわらず、かかえ込んでしまい、必要な治療を数ヶ月も遅らせてしまう失敗も起りうるのである。心理臨床家も判断過誤によりその責任を追求されることもありうることを念頭におき、厳しい自己研鑚をし、スーパービジョン体系の中に自己を組み入れ、心理臨床家としての専門性を確立して行かなければ、先人からの依頼も、社会からの信頼も得られないのである。社会からその必要性を求められながらも、信頼を得られずあいまいな存在でしか扱ってもらえない危険が今後も待ちうけているのである。以上にのべた事柄をふまえた上で心理臨床家の個人開業を考えて行かないと、誰からも見向きもされず、淋しい自慰行為に終始してしまうように思われる。

 稿を終えるにあたり、ご指導と御助言をくださいました東京大学医学部教授逸見武光先生、直接にご指導下さいました東京大学医学部精神衛生学教室助手細木照敏先生 (現・日本大学心理学科教授)、そして東京大学医学部精神衛生学教室同窓の諸兄姉に心から御礼申し上げます。

 

参 考 文 献

 

1) 中嶋柏樹:一私立精神衛生相談室一年の歩み・非医師による外来精神療法施設      の実験的試み。1978

 

 

 

 

 

 

oak-wood@ba2.so-net.ne.jp
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