府中地域精神保健ネットワーク

精神保健・府中ネットワークのあゆみ 地域精神衛生業務連絡会
地域精神保健連絡協議会専門委員会 −そのあゆみと現在の状況を中心に−
( 編集 発行 東京都府中保健所 1996 より抜粋 )
 

  

地域精神衛生業務連絡会の活動

 この業務連絡会(以後「業務連」と記す。一時は精神衛生業務研究会とも呼ばれていた)は、昭和58年2月から、月1回のペースで、昭和61年10月までの約4年間、計40回の会合が持たれた。内容は、半分が事例検討であり、その他には意見交換、報告、講演、計画立案、施設見学、福祉まつりへの参加などがある。事例検討は精神分裂を中心としたケースが多いが、社会福祉事務所のケースワーカー、保健所保健婦、それに地域のケースワーカーやカウンセラーが共同で事例を提出している事が多い。

 業務連はその目的を、1.懇親、2.事例検討、3.行政にアピールするシステムになること、と初回に確認し、顔ぶれは第1回を例に取れば、市の職員、主に福祉事業所のケースワーカーが5名、保健所職員が7名、そして地域の病院や相談施設から医師・ケースワーカー・カウンセラー等の出席が5名である。「お互いの立場の違いや独自性を尊重し、おのおのが抱えている問題をみんなの問題として考え、解決の方法をさぐる」、「積極的に意見交換しおのおのの学びの場とするだけでなく、具体的に地域精神衛生活動を進めていく場とすること」等の方向性が初回の話し合いで出されている。

 年度別に内容をまとめてみると、つぎのようになる。 58年度には12回開催され、事例検討が5回、そのほかには運営方針の検討、各職場の抱えている問題、保健所のデイケアの紹介などが行われた。事例検討では福祉事業所、病院、保健所などからケースが提出され、複数の障害者のいる家族の事例やデイケアに参加しているケース、医療や福祉を拒否するようなケースが取りあげられた。医師による分裂病についての講義もあった。59年度は、アルコール問題を中心に11回開かれた。事例検討は6回行われ、そのうち3回は福祉が提出した事例であった。内容には近隣からの苦情のあったケース、入退院を繰り返すケース、治療の動機づけに苦慮するケースなどがあった。医師による「アルコール依存症」の講演会や、保健婦による「酒害相談」の報告もあった。

 また10月には業務連として初めて市の福祉まつりに参加して、映画と相談コーナーを設け、一般市民への啓蒙活動を行っている。60年度には10回開催され、そのうちの5回が事例検討である。生活保護を受けている単身生活者や母子家庭のケースなどで、病者と家族の関係がテーマになっていた。この年、初めて中部総合精神衛生センターへ施設見学に行った。福祉まつりでは、病気についての講演を行っている。61年度は10月までに7回の会合を行ったが、うち3回が事例検討である。関係機関が多く関わったケースなど、関係機関の連携がこの年のひとつの課題となっている。施設見学は、救世軍自省館を訪れた。福祉まつりにも例年どうり参加している。年度の後半からは、地域精神保健連絡協議会が発足したこともあり、業務連の活動は中断している。業務連が専門委員会として再スタートをするのは翌62年1月であるが、この間、組織替えのために調整がなされた。

 

 

地域精神保健連絡協議会専門委員会の活動

  昭和62年1月26日、第1回の専門委員会が開催された。この日、保健所側からの発足の挨拶のあと、東大医学部教授の佐々木雄司氏を迎えて「地域精神衛生のネットワーク作りについて」と題する講演会が持たれた。沖縄をフィールドにした具体的な話と、「事例制」をキーワードにして、立場の違うメンバーによっていかに地域活動を進めて行くかという話であった。モデルを具体的に作りながら、その機能を評価していく必要性も語られた。 昭和62年度は6月から始まり、8回の専門委員会が開かれた。内容は事例検討が4回、施設見学・講演会・報告などが各1回である。

 6月には年間の計画が検討され、原則としてつき1回の定例会を確認している。事例検討では保健所、病院、福祉事務所から事例が出され、医療へのつなげ方、アパートの問題、作業所との連携の問題、母と娘の関係、閉じこもりと訪問などが問題点として出された。共同作業所を2ヶ所見学し、精神衛生法の改正について中部精神衛生センターの菱山所長に講演を依頼した。この年は業務連のメンバーに、医師会、作業所、教育センターなどから新しく参加者を迎えたが、内容的には前年までの路線を引き継いだ。 昭和63年度は9回の委員会が持たれた。事例検討が5回、施設見学・講演会・計画・まとめの話し合いが各1回であった。事例は、治療を中断しがちなケース、外部との接触を拒否するケース、青年期の発達の問題、出産との関係などがテーマとなって検討された。

 施設見学ではアルコール病棟と保健所デイケアを訪れ、講演会は「最新の精神衛生の動向」と題して、前年同様、菱山氏にお願いした。精神衛生の幅広い課題が取り込まれ、立場の違う視点から熱心に意見の交換がなされている。平成1年度には8回の委員会が持たれた。事例検討が3回、施設紹介・意見交換・講演会・年間計画などが行われた。事例では、単身生活者の問題、老人性神経症、ボランティアの関わりなどがテーマになった。施設紹介は共同作業所・断酒会・教育センターについての紹介があり、講演は共同ホーム「はらからの家」の伊沢寮長にお話しいただいた。この年は事例検討が比較的少なくなり、他の施設との交流など、自主的な活動への動きが増えたと言えよう。

 平成2年度は、回数が少なく6回の専門委員会がもたれた。事例検討・シンポジウム・私設見学・公演・意見交換などである。新しい活動としてシンポジウムの開催がある。「地域精神保健活動の発展にむけて」と題されたこのシンポは、新しい形の作業所(SSTやイブニングケア)を模索して、市の文化センターで公開で行われた。シンポジストはケースワーカー・保健婦・家族会の専門スタッフらで、議論が深まったとは言えないにしても情報の交換としては有効な企画であった。専門委員がはじめて地域の住民と直接の交流を果たしたという意味でも、その後の地域への積極的な活動の第一歩となっている。なお、この年の施設見学は、老人病棟・アルコール病棟・病院デイケア施設を訪ねた。

 平成3年度の第1回会合では、精神保健のネットワークとしてこれからの活動をどうすすめて行くかについて、保健所側から「委員会の在り方と進め方」というテーマでアンケート形式で問題提起がされた。その結果、1.情報交換の場、2.事例検討の場、3.今まで積み重ねてきた実績を形のあるものにする場、としていくことが確認された。この年のシンポジウムは対象を精神保健の関係者に限らず、広く一般市民にまで広げて「いま、心の健康を守るために」と題して、心の健康回復の方法や障害者のためのサポートシステムの紹介がテーマになった。教育の現場からは東京農工大学カウンセラーの鉅鹿氏、医療の現場からは府中病院の三好医師、社会復帰の現場からは職親「ストローク」代表の金子氏、そして保健所の活動については宮野保健婦に話題を展開していただいた。

 参加者も53名と多く、「心強く思った。今後もこのような企画を続けて欲しい」などと肯定的な意見が多かった。施設見学もまた、新しい試みに挑戦している現場として、「しゅろっ亭・池田会館・クッキングハウス」が選ばれ、従来にない指向の事業を学ぶ機会となった。最終の回では、次年度に開設される多摩精神保健センターの事業について同センターの職員から話を伺い、専門委員との間でも熱心な議論が交わされ精神保健への熱い期待が寄せられた。平成4年度の第1回会合では、地域精神保健審議会の答申の報告を受け、今後の精神障害者社会復帰対策について熱心に質疑応答がなされた。この年、2回の事例検討では関係機関の連携が問題として取りあげられた。

 施設見学は都立多摩総合精神保健センターで、見学ののち相談係・広報援助係・社会復帰病室・デイケア・作業部門・ホステル部門などの各担当者からレクチャーを受けることができた。地域に開かれた施設として大きな期待が寄せられていた。この年度のシンポは、「精神障害者のグループホームを考える―新しい形の住まいを求めて―」と題して開かれた。東京つくし会(家族会)から井上氏、すでにグループホームを運営している「歩みホーム」からは黒崎氏、行政の立場から多摩総合精神保健センターの山中氏がシンポジストとして、それぞれの経験を踏まえて熱い思いを語った。会場には市内の障害者の家族の参加はもとより、市外の精神保健の関係者の顔も多く見られ、この問題への関心の高さをうかがわせた。

 このシンポの終了後、専門委員を中心に作業所や家族の有志がまとまり、グループホームの実現に向けて活動が続けられた。平成5年度は、保健所で「精神保健ネットワーク事業」が実施され、専門委員会とは別に2回の拡大専門委員会が実施された。この会では、市内外のネットワークのガイドブック作りに向けての検討と作成のための作業がなされた。4回開かれた専門委員会では、精神保健相談において若い世代の「閉じ込もりなどの相談が多いことから、思春期、青年期の心の問題を年間のテーマにした。「児童相談所の置ける思春期問題」と題して多摩児童相談所の伊藤氏から、興味深い話題提供があった。

 なお前年度から活動を続けていたグループホーム小委員会は、ホームそのものの運営を考える「府中市グループホーム運営委員会」として独立し、地域に根ざす活動団体となって発展していった。平成6年度は定例の6回の会議が持たれ、事例検討、思春期問題への取り組み、施設見学、就労問題とさまざまなテーマが取りあげられた。教育センターの山崎氏から「小中学生の不適応児の実態と取り組み」について、立川公共職業安定所の天野氏からは「就労後の危機に対応できるネットワークづくり」の必要性についてお話しいただいた。いずれも活発な質疑応答と意見交換が続いた。この年は、関係機関の連帯についての議論が多く話された年度であった。

 また、前年度からスタートした業務連と専門委員会の歴史をまとめるための小委員会がインタビュー取材を開始し、広く関係者に寄稿を依頼した。平成7年度は、6回の会議のうち4回が「精神保健・府中ネットワークのあゆみ」の企画・編集のための会議となった。そのほかは、事例検討と意見交換が各1回持たれている。このように専門委員会の活動を振り返って概観してみると、初期のころは事例検討が中心であり、つぎに施設見学などで他の地域の活動に触れるような時期を過ぎ、自らシンポジウムを開催して地域の人と触れるようになり、作業所作り、共同住居作り、ガイドブック作りなど、いくつかの活動を経験してきた。

 

 

中村陸郎先生と府中精神障害者家族会

 中村先生が都立府中病院に赴任されたのは,昭和52年7月のことでした.それまで府中精神障害者家族会の相談役をされていた金子先生〈当時松村病院精神科部長、のちに院長〉から,相談役を引き継ぐことを依頼され、家族会からも要請があり,府中家族会に関わることになった由です。中村先生は,月1回の定例会兼「勉強会」の講師として参加,協力することになりました.この「勉強会」は昭和52年から始まり、中村先生が都立松沢病院に転勤になった昭和60年まで続けられました。当初は,家族会からの要望で、「精神科薬物療法」や「家族の患者への接し方」などのテーマで話がなされ、そのあと質疑応答が行われました。会のあとには,個別の家族からの相談にも応じておられました。

 「勉強会」の方ではその後,アメリカのニューヨーク医科大学の臨床精神医学教授シルバーノ・アリエッティの著書「Understanding and Helping the Schizophrenic−A Guide for Family and Friends」(精神分裂病の理解と援助−友人と家族への手引き,1979,Basic Books)をテキストとして行われるようになりました.中村先生はこの本の原作が発売された直後にこの本を入手され,これが家族の方のために書かれたたいへん良い本であると、毎回少しずつ順を追ってそれを日本語に訳して紹介、解説されたのでした。アリエッティの著作のあとは、デービット・クラーク著「精神医学と社会療法」(秋元波留夫他訳、医学書院)がテキストとして用いられました。

 内容的に家族の方には少し難しかったかもしれませんが、精神科入院病棟の開放化の問題、治療共同体の理念、作業所やホステル・グループホームなどについてイギリスの現状と併せて学べたことは、のちの作業所の開設に向けての良き刺激や準備となったと思われます。 勉強会には家族会のメンバーの方のほかにも、府中保健所などの保健婦の方やボランティアの方たち、患者さんたちも参加し多いときには50名を越えるようなこともありました。勉強会のほかにも、念に2回家族主催の講演会が行われ、家族会の方のほか、患者さんたち、ときには府中市の市議会議員の方、保健所の保健婦さん、他の地域の家族会に方や作業所の職員、看護学校の生徒さんなども参加されて、たいへん盛況だったこともありました。

 昭和50年代の後半ころからと思われますが、家族会の定例会などに元都立松沢病院の栄養科長だった鈴木芳次さんや元看護総婦長だった浦野さんがときどき出席してくださるようになり、その関係で栄養士の斎藤王乃さんが協力してくださることになり、患者さんを対象とした料理講習会なども開かれるようになりました。前に述べたように、家族会のこれらすべての活動が活発に行われた背後には、家族会の会員の方々や多くの支援してくださった方の陰の働きがあったことは勿論ですが、坂井静さんという類稀な献身的な方の熱意とご努力があったことを忘れてはならないでしょう。しかし不幸にして家族会の作業所の設立が具体化し始めたころ、ある事情で坂井さんに活動から手を引いていただくことになりました.この経過のなかで、結果的には作業所が2つ誕生することになったのです。

 中村先生は府中病院神経科〈精神科〉で初代の医長として外来診療にあたる一方〈当時はまだ精神科の病棟がなかったのです〉、府中保健所で月1回の精神衛生相談を担当され、保健所を中心に行われていた精神衛生業務連絡会にも出席し、ときには講義をなされたりしました。また、当時往診が殆ど行われなくなって受診を拒否している患者のために、家族などの要請で往診もされたりして、地域の精神医療のために尽くされました。また府中病院では都精神研の石川義博先生と「精神衛生懇話会」〈月1回各自が症例を持ち寄り、討議〉を発足させ、これには地域の保健所から保健婦やカウンセラーの方たちも参加していました。

 中村先生は、昭和60年に府中病院から都立松沢病院、その後墨東病院と転勤され、平成4年に府中療育センターに赴任するまでは、府中から離れておられたこともあって家族会との関係は少し遠のいておられました。作業所が5つ、グループ・ホームが2つもでき、この10年間で府中市内の地域医療も随分大きな変化が起って来ています。

 しかし、地域にはまだまだ精神障害のために苦しんだり、悩んだりしている方たちや家族の方たちが多くおられる状況のなかで、先生は今後も府中家族会の方々とともに精神障害者のための社会資源の充実−たとえば規模の大きい共同住居や保護工場の建設と地域の小規模精神保健センターの設立など−や、地域の医療・福祉・援助などの連携組織の確立−なかでも作業所運営の基盤の強化などについて夢−を持っておられるようで、このために福祉公社や福祉法人化なども将来の計画として考えて行きたいと言われています。

(なかむらりくろう 都立府中療育センター副院長 1995.10. 取材 : 中嶋柏樹)

 

  

 

地域精神衛生保険連絡協議会の発展に寄せて

                    小林 喜代子

1.地域精神衛生業務連絡か発足のころ

 昭和54年、一通の「市長への手紙」が波紋を投げかけた.「増加傾向にある登校拒否や家庭内暴力等に対する相談体制と精神疾患に対する休日・夜間診療の必要性」を訴えるものであり、「けやきの杜精神衛生相談室」主宰の中嶋柏樹氏からの熱意溢れる提言であった.当時、府中市では全国に先駆けて市民医療センターを開設し、休日・夜間診療としての体制はスタートしたばかりであったし、精神関係の相談などは保健所に依存していた時期であった。

 投書を受けた健康課長は、直ちに精神衛生業務を実施している保健所へ出向き、情報を収集した.そのなかで精神疾患に関する相談や夜間診療の必要性を確認したが、諸般の事情で開始には至らなかった。しかし、「市長への手紙」の趣旨は尊重された.当時、保健所の精神衛生に関する保健婦活動は活発であり、つぎのステップに移行する時期であった.これを機に、精神衛生担当の磯見保健婦の活動が加速されたとも言える.磯見氏は都精神衛生課長および精神衛生センター等の理解を得て、まもなく地域精神衛生業務連絡会を発足させた。

 法的に整備される以前であり、保健婦諸姉の熱意と関係機関の協力によりエネルギーを結集し、活動が開始された.その後の発展は目覚しいものがある。健康課では従来より育児不安・養護に関する等の保健相談が多くみられたが、社会の変化につれてメンタルヘルス関連の相談がみられるようになった.保健婦は市民の健康問題にいつでも対応でき、プライバシーが守られるように常設の相談室を希望し、更に5か年計画で専門相談実施を提案していた。心理相談については年次ごとに相談回数を増加し、家庭訪問によるきめ細かな体制を想定していた。平成2年度に念願の保健相談室が整備され、業務開始となった。

2.福祉相談室から望むこと

 7年度より市役所内に福祉相談室が設置され、毎月1,000件を越す相談が寄せられているが、長寿社会のなかで高齢者の相談が圧倒的に多い。なかでも痴呆性高齢者の介護問題は切実な状況であり、在宅生活を危うくしている。また、高齢の親が精神疾患の未婚の子を介護している場面が顕在化してきている。精神疾患に閉鎖的な社会で、自らも閉じ込もらざるを得なかった親たちが高齢化し、体力的にも介護困難をきたしている。

 また、介護されている本人も60歳前後に達している現状である。身近なところでグループホーム等の援助が効果的であろうと思われる。精神疾患については福祉サービスが未整備である。福祉相談室に寄せられる内容は多岐に渡っているが、健康問題を含むことが多い。保健と福祉、医療と強力な連携が望まれる。地域精神保健連絡協議会のますますの発展を望みます。

       (こばやし きよこ  府中市福祉部地域福祉課福祉相談室 保健婦)

 

 

健康課における精神保健のかかわり

                                広中 美奈子

 健康課は、広く市民の健康管理を担う行政機関として、さまざまな形で市民とかかわってきた。今回、健康課における精神保健の歴史をまとめるにあたり、精神保健との関わりのある事業として、以下のことを取りあげたい。

 1 健康相談

 昭和51年度、国民健康保険の保健婦が保険課に配置となり保健相談が開始された。昭和54年度、市町村に身分が移管され、健康課における相談事業が始まった。保健相談には、所内相談と電話相談、巡回相談がある。所内相談においては平成2年、相談者のプライバシー保護のため保健相談室が設置された。また、昭和59年度、老人保健法に基づき「健康何でも相談」を開始した。巡回相談として、昭和51年度からは「老人健康相談」、「母子健康相談」を開始〈各文化センターを巡回〉。平成3年度以降は、「地区別相談」として実施している。

 そのなかで心の健康に関する相談は、増加傾向にあった。そこでこうしたニーズに応えるため、平成3年度より年に4回、心理士による「心の相談」を開始した。しかし、保健所の行う精神保健相談と重なる部分があったこと、地理的にも同様な相談のできる保健所が近かったことから、平成6年度をもち廃止に至った。現在では書く健康相談が、広く精神保健の相談窓口としての役割を果たしている。

 2 健康教育

 昭和52年度より、地区活動の一環として衛生教育。昭和58年に制定された老人保健法により健康教育は、成人病予防、健康増進、健康に関する正しい知識の普及などを目的とすることが明示された。精神保健の分野では、おもに成人病とストレスとの関連について予防的な視点で啓発に努めてきた。また、昭和63年度以降より精神保健をテーマにした健康教育を開催している。

 3 訪問健康指導

 昭和53年10月、厚生課で老人訪問看護事業が開始された。昭和58年、健康かにおいて府中市訪問保健指導として実施し、現在に至る。本事業は介護の方法など技術面だけでなく、療養者や介護者の精神的支援や痴呆性老人に関する保健指導等、精神保険的な意味合いにおいても重要な役割を果たしている。

 4 乳幼児健康診査

 昭和57年から、1歳6か月児健康診査を開始。昭和63年度より、検診後のフォローを充実させるため、発達に遅れのある幼児を対象にした集団指導や、育児に不安のある母親に対する精神的ケアを行っている。

 5 健康増進事業

 昭和62年度より、精神病予防の一環として、健康の維持・増進の実践指導を目的に、「健康増進事業」を開始。そのなかで休養や心の健康づくりに関する保健指導および事後フォローとして、ストレス等のテーマを取り上げた講座を実施している。

 なお、精神保健法が精神及び精神障害者福祉に関する法律に変わり、市町村の役割が法律上明確に位置付けられた。そこで、(1)適切な助言・適切な専門機関の紹介ができるよう日頃から関係機関との強力体制の充実を図り、相談窓口としての役割を担うこと、(2)種々の事業を通して、さらに住民のニーズに応じた心の健康づくりに取り組むこと等を中心に努めていかなければならないと考えたいる。

             (ひろなか みなこ  府中市福祉部健康課 保健婦)

 

 

 斎 藤 病 院 の 紹 介

                           斎藤 章二

 当院の歴史は遠く明治36年にまで遡る。斎藤紀一、斎藤茂吉、斎藤茂太の歴代院長による帝国脳病院−青山脳病院−斎藤神経科と続く長い歴史の精神科病院と、昭和14年に宇田倹一院長が家族的雰囲気の中で患者さんに療養していていただこうと武蔵野の地に創設した宇田病院とがその前身で、戦後の昭和32年から斎藤病院(個人)、平成4年12月からは医療法人財団赤光会(しゃっこうかい)斎藤病院となり現在に至っている。

 定床は精神211床で精神科病院としては中小規模ではあるが、この規模の病院としては外来患者数が多く、現在平均して日に100名前後の方が受診している。他県や23区からの患者さんも依然少なくはないが、近年は地元や近隣都市からこられる方が増えており、従来にもまして地域との連携が重視されるようになってきている。昭和30年代ころまで病院の周りは、民家も少ない林や田畑の広がる田舎であった。府中市の急速な発展に伴って現在は町中の病院に変身してしまったというのが現状であろうが、病院が先に存在していたためもあろうか、今まで大きなトラブルが無かったこともあって、60%以上開放となっている地域の"心の病を持った方々"に対する受け入れ体制やご理解に感謝するとともに、より一層のご理解・ご協力をお願いしたいというのが病院職員全員の願いでもある。

 市の地域精神保健業務に対する協力を含め、今まで以上に地域と密着した病院になりたいと思っている。また当院は東京都の指定病院として輪番制で借置入院者等の受け入れも行っており、今後も都や府中市を初めとした公的機関との協力体制を維持していきたいと考えているが、身体合併症の問題を中心とした精神科救急医療システムについては、民間病院と公的病院との役割分担などを含め、より良い形での整備がなされることを期待したい。慢性期の患者さんや社会復帰を目指す患者さんに対しては種々の両方や社会復帰訓練が大切であるが薬剤部門は医薬分業に伴い薬剤師による病棟内服薬指導・薬剤管理業務をスタートさせ、古くから行われてきた作業療法は昨年度に新・改築された新しい作業療法棟の完成に伴って、その内容の見直しを行いつつ、更なる改善・推進を目指している。

 そして、その棟の2会部分に新しく設けられたデイケア室では、平成7年2月より外来患者さんの受け入れが始まり、デイケアを本格的に軌道に乗せるべく担当職員を中心にがんばっているところで、訪問看護のほうも看護/コ・メディカルスタッフを中心に準備が進んでいる。精神保健法の一部改正、精神保健福祉法のスタートに伴い、それぞれの地域における精神保健活動の、より一層の充実が期待されているが、病院からその地域へ退院せざるを得ない単身者(実質単身の方を含む)の受け皿という点になると、はなはだ不充分と言うのが現状でグループホームを中心とした今まで以上の早急な整備が望まれる。

 そして、それに伴う精神障害に対する更なる理解を得るためにも、市、関連各機関や施設、医療機関の連携・協力が必要であり、精神保健福祉ネットワークのなかで地域病院としての充分な役割が果たせるように今後とも努力していきたい。

            (さいとう しょうじ 医療法人赤光会斎藤病院 院長)

 

 

 根 岸 病 院 今、昔 

                      松村 英幸

 せっかくの機会なので、当院の歴史を整理して現在までの推移と地域に果たす精神病院の役割について述べてみたいと思う。根岸病院の遠隔は明治12年に北豊島郡金杉村(のちの下谷区根岸町51)に越後の渡辺道純が開設したことに始まり、来る1999年には創立120年を迎える。「根岸」という名は、下谷区根岸町に病院ができたことに由来する。明治23年に祖父松村清吾がこの私立癲病院を継承し、戦後府中の現在地に移転した。この土地を祖父は、精神病の患者には自然に満ち溢れた広大な敷地で療養させることが最高の治療であると考え、昭和の初めにすでに購入していたものである。

 渡辺道純から松村清吾に継承されたいきさつについては、明治34年11月、工藤鉄男編「日本医事通覧」に、「沿革 精神病院専門にして明治12年の9月の創立にかかり当時の院主渡辺道純氏は経営刻苦大に軌道の為めに努力せしも如何んせん精神病学未だ頗る幼稚にして社会またその必要を認知せざるが為不幸効果を収むる能わず途中解散の悲境に沈淪せしが明治21年現病院院長松村清吾氏其の後を受けて励精苦心の結果大に世の注目を惹き事業次第に隆盛に赴き現今私立精神病院中稀にみる整備をなし遂に今日の盛況を呈するに至れり」とある。

 昭和24年83歳で祖父清吾が亡くなるのを受けて父の松村英久は院長に就任する。当時の病院には広大な畑と林があり、住み込みの農夫が野菜を作り,豚、ヤギ等の家畜を飼っていた。作業療法については、樫田五郎著「日本における精神病学の日常」によると、「明治22年此年根岸病院にて患者に袋張りの作業を課せしとて、警視庁より之が停止を命ぜられ始末書を徴せらる」と書いてあり、明治のころからすでに行われていたようである。私が子どものころ〈昭和27年ころ〉は北多摩郡西府村という住所で、その年開設された府中病院は結核専門病院で平屋の建物がたくさん並んでいた。

 昭和28年〜33年は患者も職員も若く、病院の運動場にはいつも人が溢れ野球やレクリエーションが活発に行われていた。精神症状もまた活発で、その看護も大変であった。昭和30年代に入り治療の主体は薬物療法に変わり、精神分裂病も徐々に軽症化していき社会復帰が可能になってきたが、最近は患者も老齢化しており、合併症への対応が急務の課題である。精神衛生法から精神保健法へ、さらに昨年は精神保健福祉法へと名を変えて精神障害者手帳も作られた。

 当院も平成元年から小規模デイケアを始め、デイケア棟の新築も行われ大規模へと移行した。また作業療法の許可も取り、SST、適時適温給食、600点業務(服薬指導)もはじめたところである。訪問看護も、数は少ないが始めている。これからは更にこれらを充実させ、より安定した経営基盤を築き良質な医療を提供し、医療の冬の時代を乗り切っていかなければならない。社会復帰が日のあたる仕事であるとすると、精神科救急を含む急性期医療は多くの問題を抱えており、偏見をもたれる部分でもある。私は常々、急性期が過ぎ軽快して退院するときからが本当の治療であり、入院はその準備をするための期間であると思っている。

 社会から精神病院がどういうふうに思われているのか、地域の方に病院にもっと来てみていただくことが患者さん初めわれわれ職員の刺激になり向上につながることだと思う。

             (まつむら ひでゆき 医療法人社団根岸病院 院長)

 

 

 府中市の精神科診療所事始め

                       吉沢 順

 ときどき患者さんからも府中で開業した理由を聞かれるのですが、私と府中との出会いは平成4年6月のことです。今まで外来しかなかった都立府中病院精神科に新たに入院病棟ができたため、スタッフの一員として府中病院に勤務することになったのです。府中病院精神科は、ベッドを持つことによって、精神科救急医療や身体合併医療を初めとする総合病院ならばこその高度な医療を行えるようになりました。

 しかしただひとつ気になったのは、外来のあまりの混雑ぶりです。どんなに一生懸命診察しても、長い間待たされたあげく短い診察にならざるをえませんでした。その原因のひとつとして、昭和52年から14年間、府中病院精神科が病棟を持たずに外来中心の医療を行ってきたことがあげられます。総合病院に精神科があることさえ珍しかった当時には、これは実に画期的なことでした。しかし現在では精神科をとりまく状況は大きく変わり、一般的にも大病院への患者集中が批判されています。入院や、高度な検査や、身体的治療との連携が必要な患者以外は、近くの診療所に通院する方が便利な時代になりました。

 そこで何人かの患者さんに「あまりお待たせして悪いから、もっと近くの診療所を紹介しますよ」と言ったところ、戻ってきた答えは「だって先生、府中病院が一番近いんです」でした。そのとき初めて、府中市には精神科の診療所がないことに気づきました。立派な単科の精神病院や総合病院の精神科があるのに、精神科があるのに、精神科の診療所はひとつもなかったのです。患者さんを地域でささえていこうという流れのなかで、これは驚くべきことでした。「府中にも精神科の診療所があったらなあ」というのが、わたしのそのときの気持ちでした。そして……。

 平成6年3月、なぜかわたし自身が、府中市で最初の精神科診療所を開くことになりました。通いやすい、待たせない、ゆっくり診察できるというのが最初の目標です。場所は大國魂神社の近くで交通の便が良く、インテリアもドアや家具を木製にし、カーペットを敷いてやわらかい感じにしました。診療は原則として予約制にして待ち時間の短縮をはかり、診療時間も比較的長くとることができました。高度な検査が必要な場合は近くの医療機関に依頼していますし、入院が必要な場合はベッドを持つ病院にお願いしています。また、地域の作業所デイケアなども積極的に紹介しております。

 今後しばらくは、ハード面よりもソフト面の充実が必要とされています。現在、精神障害者の社会復帰の問題がクローズアップされています。わたしもわかまつ作業所の顧問医をするなどのお手伝いをさせていただいていただいていますが、当院の通院患者に関しては、診療所自体が新しいためか、社会復帰という出口よりも入り口が問題になる場合が多いようです。家族だけが相談に来るケースをどうやって医療に結びつけるか、必要な場合いかに入院させるか、急性期からの回復過程でどうリハビリを行い、社会からの逸脱をいかに防ぐかなどに頭を悩ませています。また、仕事などのストレスによる不眠や抑うつを訴えてくる人が多く、これらの人への対応も課題です。

 また、市立の小中学校の精神科校医という大役を仰せつかったので、不登校を初めとする子どもの心の健康の問題にも取り組みたいと思っています。こうして地域の精神保健・医療・福祉・就労を支えるネットワークの一端を担えればと思っています。

            (よしざわ じゅん  吉沢メンタルクリニック 院長)

 

 

  地域精神医療業務研究会と藤沢敏雄先生

 藤沢先生が初めて松沢病院に転勤したときも、つぎに武蔵野療養所に勤務したときも、なぜか社会復帰病棟を持たされたのだそうです。地域に帰れるような整備がなにもできていなかった昭和40年代の初めでしたから、長期在院の患者さんを退院させるために大変な思いをして、複雑な心境で送り出し続けていたことから、地域精神医療に強い興味をもったのだそうです。武蔵療養所から沖縄県の名護保健所へ派遣された際に地域精神医療活動を経験して、精神医療システムのヒントを得たとおっしゃいました。

 昭和44年に都の保健所に精神科嘱託医制度ができて、立川保健所でクリニックを始めたのが「地域」との関わりの始まりだといいます。昭和48年に「精神衛生実態調査」が再度実施ということになりましたが、10年前に実施した結果が精神病院の数を増やすだけだったのと、プライバシーと人権を無視した実施方法に反対したのがきっかけとなって、「東京都地域精神医療業務研究会(地業研)」を発足させたのです。

 都の保健所にコ・メディカルの精神衛生相談員が配置されましたが、すぐに入院させるだけがほとんどの業務と感じた不満を訴える事件がありました。きもちは理解できても自己否定的な運動であったため、残念なことに保健婦の精神衛生相談員に代えられてしまうというエピソードなどがありました。また、精神衛生実態調査に反対する運動が全国に広がり、むしろ「精神病院実態調査」こそ必要という意見が強まりました。患者さんたちの「消費者運動」と考えても必要なことは明らかですが、実際はかなり困難なことも明らかでした。

 東大保健学科との共同研究で計画を進めました。純粋な学術調査ということで、了解を得て実施したのだそうです。結果として得られて公表できたものは、各々の精神病院が都に報告している「病院年表」程度の内容と、それに加えて「院外作業」に従事する患者さんの立場を考えて地域精神医療の改善のために「提言」し、行政の認識不足や不勉強による反動的な施策に対しては断固「反対」する姿勢を20年以上も持ち続けた藤沢先生の実行力には、敬服せざるにはいられません。

 20年以上の歴史を重ねている「地業研」の活動のなかで、精神医療に従事したいと志す若者が数多く参加して巣立ちました。東京多摩地区を中心にして全国に散らばった精神医療業務関係者は、かなりの数にのぼるでしょう。各保健所の地域精神保健連絡協議会の専門委員会のなかにも、地業研を巣立っていった若者たちがいまや中堅となって活躍し、地域精神保健活動の担い手となっているのは喜びだと語られます。府中保健所専門委員のメンバーである中嶋と鉅鹿も、「地業研」で藤沢先生に教えていただいた者です。

 「地業研」は精神病院の統計資料が全国的に公開されていくよう働きかけ、精神科の救急医療が整備されていくように働きかけ、地域精神医寮のモデル作りを完成させたいと考えています。地域精神保健活動の充実を願う者同士として、常にしわ寄せを受け無視されがちな弱者の立場に視線を置いて、諦めずに息の長い活動を続けていってほしいと語られました。

(ふじさわ としお にしきの診療所 院長、 取材 中嶋柏樹)

 

 

 "駆け込み寺"的相談所を目指して

中嶋柏樹

 かつて精神病院に勤務していたころは「治療共同体」と「社会療法」を治療理念にした実践で、いわゆる沈殿患者と呼ばれていた人たちまでも社会復帰が充分可能との感触が持てていました。しかし退院率が上昇して入院期間が短縮傾向を示しますと、それに伴い再発入院も増加して「回転ドア現象」が発生しました。精神病院を気軽に利用できたら良いと思っても、気軽に利用したくなる精神病院がないのです。ホテルのようと噂されても他の病院との比較であって、本物のホテルと比べたら、ホテルのようとはとても呼べません。ユースホステルや国民休暇村のようなところに看護婦やソーシャルワーカーが常駐していて、精神病院に入院するしかないような状況にならないよう利用できたらよいと思ったこともありました。

 病院から地域へと「社会復帰」に弾みがつくのを見るに連れて、回転ドアの現象を解消しなくてはならない気持ちが強まりました。そして退院して外来通院している患者さんたちの生活ぶりに目を向けてみましたら、通院が唯一の外出日という、殆ど閉じ込もりのような日々でした。希望のないカウチポテトの日々を送っていても、きちんと服薬していて状態悪化の懸念がなければ誰も気に止めたりはしません。下に赤ん坊が生まれてオネショが復活した子どものように、関心を示して欲しくて欲しくて具合が悪くなっても不思議ではないように思います。

 幸いなことに社会や地域が精神保健と福祉に力を入れているので、社会復帰のあとの環境適応を容易にしてくれます。社会復帰への適応を援助するハードができてソフトが付加されますが、そのソフトが有効に機能するように「ソフトのソフト」が存在する必要があるのです。必要があると自然発生し、むかしの人たちは「寺」に「駈け込み機能」を持たせました。いまの寺では不可能でしょうから、なにか既存のもののなかに「精神保健相談所」を設置し、精神保健の専門チームが常駐し、コンビニのように、年末年始も休まずいつも開けておきたいのです。「危機介入」の緊急出動ができる体制をもち、問題を解決するために「調整機能」をもち、調整中に分離休養ができる「宿泊施設」も欲しいのです。このような「"駆け込み寺"的精神保健相談所」が緊急出動にも応じられる体制で身近にあったら、地域精神保健と福祉の「画竜天晴」で、画竜天晴を欠いてはいけません。

 事業の経緯と概要

 昭和50年 地域精神衛生懇話会・発足 代表世話人の心理士のほかに大学病院等の精神科、内科〈診療内科〉、小児科医師と看護婦で構成。開業予定の医師と研修医そして看護学生が主要メンバー。昭和53年欅の杜精神衛生相談室・開業 閉じ込もり、登校拒否、家庭内暴力などに応じて、過程訪問に終われる。「危機介入」体制は首都圏全域即日訪問、そのほか国内及び外国(邦人会所在地)は数日中。休日返上で東奔西走。

 昭和54年 プロジェクツけやきのもり・発足 ボランティア・カウンセラーによる地域精神衛生性活動グループが必要に応じてプロジェクトを作るきめ細かい対応が特長。懇話会のメンバーの有志のほかに、サイコセラピスト、メンタルヘルスワーカー等が参加。カウンセリングに興味をもつ学生と主婦らが主要メンバー。

 カウンセリング勉強会、コンパニオンワークミーティング、事例検討会、「まわりみち」を支援する会等が府中市社会教育関係団体自主活動グループ、および福祉活動グループ(ふれあい会館)として活動。

 昭和55年 けやきのもりグループ・編成 青少年の問題行動を解決するために必要な「社会療法」を効率よく体験できるよう、病院〈北海道〉、農場〈長野県〉、牧場(山梨)などと連携。

 平成2年 多摩精神保健保健協会・設立 民間ボランティア団体の地域の地域精神保健活動が安定して持続できるよう、更には充実して目的が達成できるよう、零細で基盤が脆弱な団体に適切な援助ができるようシンク・タンクとして機能できるよう調査し研究している。

 呉秀三がいう弱者に二重の苦しみを与えぬよう、いかなる状況にも耐え抜く強さを獲得して自由な選択が得られる生活の実現が可能となるよう支援していきたいと考えている。

             (なかしま はくじゅ 欅の杜精神衛生相談室 主宰)

 

 

事業所におけるメンタルヘルス活動 

1. 日本電気 府中事業場の場合 武田桂子

 企業において健康管理は、従業員の健康を守り、企業の社会的使命の推進に寄与するとともに、最終的には従業員の幸福を目的とする。それは主として、身体の健康管理が中心となることが多いが、メンタルヘルスにおいても同様である。企業で働く人びとは、基本的に健康な集団であることと、企業で健康管理の対象となるのは従業員に限られるため、会社生活を営めないほど重篤な精神疾患患者は対象とならない。また、採用時の検診や面接において、精神疾患の既往は法的・人道的立場から確認できないため、発見は職場不適応の症状を起こしてからになりやすいが、現在ではむしろさまざまなストレスによって職場不適応が引き起こされることが多い。

 昭和40年代の高度成長期を迎えて、当社においては、製造業務から技術開発業務へと変化し、それによって職場で協力体制をとりながら行っていた業務から、個人でノルマを達成していく業務が中心となっていった。そのため、職場でのコミュニケーションの減少といった人的環境も変化していった。さらに、従業員をとりまく社会環境においても、情報過多、学歴社会、遠距離通勤など多くのストレスにさらされる状況となっている。このような変化に伴って、軽症のうつ傾向に陥る従業員が増加している。

 企業においては、本人をとりまく家族、職場、医療の連携が必要となる。その中でも一日の大半を過ごす職場の果たす役割が大きく、異常行動が現れてから最初に気づくのは、上司、同僚の場合が多い。それが異常かどうか判断するためには、専門家の判断が必要となってくる。そのタイミングを逸すると重症化することもあるため、職場の管理監督者の教育が重要となる。現在メンタルヘルス教育は、年1回のメンタルヘルスセミナー(一般の従業員を対象にメンタルヘルスに関する講演会を実施)、階層別教育(新入社員教育、新任の主任・課長・部長研修時にメンタルヘルスに関する講義、演習を実施)を、また、リスナー教育を各職場で実施し、相談業務が行える人材を育成している。

 昭和39年、事業場創業と同時に、従業員の健康管理を目的とした診療所(現 健康管理センター)を開設、昭和45年、外部専門病院の精神科医を中心に、産業医と連携し、主として精神疾患を持ったケースの治療を開始。昭和62年、本社にメンタルヘルス相談室を開設(カウンセラー常勤)。カウンセリング業務、メンタルヘルス教育を担当。府中事業場に出張し、カウンセリングを実施する(月2回)。平成3年には日本電気健康保険組合が外部の相談機関と契約し、カウンセラー、専門医による電話相談「心の相談室」が利用可能となる。平成7年、外部専門病院のカウンセラーによるカウンセリングを開始する(月1回)。

 今後の課題としては、軽度うつ病の増加防止施策を考えている。軽度うつ病は早期発見・治療により完治が可能である。しかし病気の性格上、自主的に受診することは少なく、一般生活に支障をきたしてから、周囲の人に促されて医療ルートにのることになる。今後はそうなる前に医療ルートにのることができるような体制作り、教育をさらに実施していく。また、軽度うつ病は、コミュニケーションの希薄も原因のひとつであると考えられる。従業員の親睦を目的に、従来から行われている各種の行事(運動会、サマーフェスティバル、おしゃべり庵*)を、引き続き実施していく。   * おしゃべり庵:月1回、夕方に食堂を社員にコミュニティ・サロンとして開放。

(たけだ けいこ  日本電気(株)府中事業場 健康管理センター 保健婦)

 

 

2.東芝 府中工場の場合   石川葉子

 東芝府中工場の事業所設立は1940年、従業員数7,288名で、東芝のなかでも最大の事業所である。健康管理センターの歴史としては、事業所設立と同時に診療所を開設。その後、予防医学をとり入れるにあたり健康管理室と改名。1971年、外部医療機関の専門医を中心に精神疾患の治療を開始。1988年にラインリスナー教育にさきがけ、ラインリスナー・トレーナーを養成。1990年にはラインリスナー教育開始。1992年、健康管理センターと改名。THP活動として各種の健康づくりを開始(健康教室・調理教室など)。1993年、臨床審理しに夜カウンセリングを開始、1994年、電子メールを利用して産業カウンセラーによる心の相談室を開設した。

 現行のメンタルヘルス活動は、一次予防として、職場の活性化・風土づくり・新人管理者のラインリスナー教育の導入・新入社員懇談会などを行っている。また、二次予防としてのカウンセリングは、現在、精神科医師によるカウンセリングを月3回、臨床心理士によるカウンセリングを月5回実施しており、産業医および産業カウンセラーによる相談窓口は、常時行っている。

 心の健康増進は、ヒューマンエラーの予防に、労働力向上にも貢献し、ひいては生産性を上げる結果にも影響すると思われる。労働者の多くは何らかのストレスを抱えた半健康者といわれているいま、よい人間関係・働きやすい職場の風土づくりを、これからも私たち健康管理スタッフとラインリスナーが一体となってめざしていきたいと思う。
<ラインリスナーについて>
 リスナーとは、Active Listening から生まれた言葉で、日頃の職場において周りの人に対して目を向け、気配り、気づき、声かけを行い、積極的に話を聞くということである。心の健康の問題は特定の人の問題としてとらえるのではなく、誰でも陥りやすいものである。

 従業員が抱える問題のなかには職場環境に問題がある場合も多く、健康管理スタッフが職場と協力しながら援助していくことがよい結果につながると考え、それには日常職場で身近に接している人がリスナーとして一番理想的であるということから、この教育を開始した。従業員50名に1人のラインリスナーを目標に1990年に開始し、現在まで12期生300人が教育を終了、それぞれの職場で活躍している。受講生からは、「さまざまな考え方・とらえ方があることがわかり、自分自身のためにも勉強になった」等の声が聞かれ、当社の指針・保健の目的である職場の活性化、よい風土づくりにつながりつつある。支援体制としては、受講後のラインリスナーが継続的に活動できるよう講演会を開催したり、ラインリスナー間の連絡会議を定期的に開催している。

(いしかわ ようこ 東芝(株)府中工場 健康管理センター 看護婦)

 

 

3.サントリー 武蔵野ビール工場の場合  酒井 多喜子

 サントリー武蔵野ビール工場は従業員数221名。「従業員の健康を守る」ということで健康診断を実施しているが、ただ単に病気を見つけるという従来の考え方を一歩進めて、健康増進をねらいとした健康施策をやっていかねばと考えている。徐々に高齢化社会へと移行するにつれ、職場と家族とがより蜜に連携をとっていくことが大切なことだと思っている。また、OA化の推進や少人数体制など、企業戦士をとりまく環境は日々厳しいものがあり、それにつれての対応力が否応なく要求されてきている。必然的にそれらのニーズに対応できない者が出てくるわけで、それらのストレスによって引き起こされる症状(うつ状態)が出てくる。

 これらの症状はえてして本人は認めたがらないのが現状で、いかに早く気づくかということが問われる。本人からの相談を受けることが一番良い方法ではあるが、メンタルな面はプライバシーのこともあり、むずかしい問題になっている。武蔵野工場ではメンタルヘルスの相談日は特に設けていないが、嘱託医による相談や近隣医療機関への紹介など、早期発見、早期治療を推進している。その他の活動としては、毎月発行の「健康だより」、誌上マップマラソンの「健歩行トラベリング」や体力測定なども実施している。今後の課題として、更なる早期発見の推進や常に受け入れ可能な開かれた健康相談室、周囲の者への配慮、従業員間の親睦を深めることなどを考えている。

(さかい たきこ サントリー(株)武蔵野ビール工場 健康相談室 看護婦)

 

 

保健婦の感じた地域精神保健活動  

柏木由美子

 わたしが府中保健所に転勤してきた昭和58年頃には、前任の保健婦らによるさまざまな地域精神保健活動の試みが始められていました。 昭和58年2月から始まった「精神衛生業務連絡会」には、地域の関係機関のスタッフや精神保健に関心のある多くのメンバーが集まり、事例をとおして職種の違う役割や働きかけを知り連携のありかたを考えたり、それぞれの機関の状況を伝えあったり、刺激の多いあたたかい雰囲気の会が催されたいたと感じます。

 しかし昭和61年東京都の事業として「地域精神保健連絡協議会」が設置され、そのもとに「専門委員会」を置くことが決定しました。「専門委員会」は委員の固定や人数等の制限、所課長の考えと保健婦の考えの違いもあり、これまでのような自由さが失われるのではないかと懸念されました。これまでの私たちの活動がマイナスにならないようにと、保健所内で何度も話し合いを重ねました。その過程ではくやしい思いを何度もし、妥協せざるをえなかったこともあり、「精神衛生業務連絡会」のメンバーに迷惑をかけたと思います。

 同じ時期に、精神医学総合研究所(社会精神医学研究室)からフィールドとしての申し入れがありました。受け入れに際しては、保健婦にとって技術の向上になるような場にしたいと考えて、どのような形で共同作業ができるのか何度も話し合いを重ねました。そのなかでまず、お互いの仕事を理解する機会として、昭和58年11月から研究所のスタッフと保健婦による事例検討会を2か月に1回開催しました。また、デイケアへのスタッフの導入を検討し、これまでは女性のスタッフしかいなかったため、医師ではない男性スタッフの継続的な参加を要請しました。そこで、昭和59年2月から尾崎氏のデイケア参加が開始されました。時期を同じくして男性のグループワーカー(藤原氏)の参加や、農工大に協力を求め学生ボランティアの導入も実現しました。

 府中保健所のデイケアは、管内の病院のグループワーカーを初め豊かなスタッフにめぐまれました。このような状況のなかでデイケアはメンバーも増え、保健婦やスタッフを初め保健所全体の気運も高まり、職員や地域の関係者の参加や協力をえながら、新しいプログラムの導入や他地域のデイケア、作業所との交流、また一泊旅行などの体験へと広がっていきました。同時に保健婦の訪問相談活動も増加し、精神保健活動全体が活発化していったと思います。

 家族会とのかかわりは、定例会への参加から始まりました。会長の坂井さんは高齢にもかかわらず精神保健センター、市役所、保健所へ出向き、作業所作りに向けて働きかけていらっしゃいました。私たちもなんとか協力したいと考えていましたが、家族会にとっては物足りなかったと思います。そんななかで家族会は資金集めのやりくりをして昭和60年春、家族会員のアパートの一部屋をかりて、2〜3人のメンバーを集め作業を開始しました。それは認可を受けるまでの実績づくりの過程でした。4.5条の事務所と六畳の作業所での’紙袋作り’、当初は指導員が何度か変わったこともあり、保健婦も1日交代で作業所に通い一緒になって作業をしたり、材料の搬入をした時期もありました。

 また書類の申請や認可の過程では、保健所の事務職員の協力もえながら家族会の人たちと協力して何度も市役所の窓口に相談に行きました。昭和61年4月に正式に精神障害者共同作業所として認可されたのです。作業所の誕生はいろいろな意味で難産でした。しかし多くの人たちの熱意のたまものだったように思います。この時期は私たちにとっては、保健婦としてどこまでやれるのか、どう協力すればいいのか等を自分たちに問いかけながら試行錯誤で動いた時期です。このとき保健婦仲間がひとつになれたことに、大きな意味があったように思います。

 以上のように、「デイケア」、「専門委員会」、「共同作業所」などさまざまな活動のなかで、保健所の役割は?保健婦としてどうすればいいの?と皆で一生懸命考え、悩み、また夢中で歩んできた6年間だったと思います。これらの体験が当時その場にいた人たちだけでなく、活動を引き継いでくださっている人たちにも、なんらかの形で伝わればと思います。 地域精神保健活動も、ときの流れとともに大きく変わろうとしています。わたしもいま、三鷹地域でこれまでの活動を糧として、多くの仲間といい出会いをしたいと思っています。

(かしわぎ ゆみこ 三鷹保健所 保健婦)

 

 

尾崎新先生に府中保健所デイケアについて聴く

 尾崎先生が府中保健所のデイケアに関わったきっかけは、所属していた精神医学総合研究所の研究室が研究対象として府中を選んだからだそうです。地域に関わる際には、その成果が効果的に還元される地域を捜した結果だそうです。慎重な関わりを配慮して、まず室長である吉松和哉先生が先鞭をつけて2か月デイケアのメンバーと卓球やテニスを楽しんだようですが、デイケアスタッフの保健婦やグループワーカーから後任者については医師でない方がよいとの意見が出て、関わりに最も消極的だった尾崎先生に白羽の矢が立ったのだそうです。

 尾崎先生がデイケアに関わりたくないと思うほど消極的だった理由は、デイケアというものが幼稚園児のお遊びのようなものと思えてしまっていたからだと言います。そして、さらに関わる気にならなかった理由として、社会福祉や精神医療の世界では「もてはやされて、ブームになっているものは危険である」という認識をもっているためなのでそうです。「その方法でやってさえいればよい」と思いこんでしまっている姿勢は大いに危険で、常にどうしたらよいか迷いながらやるのが臨床であって、これさえやっていればよいデイケアであると思い込む気持ちが危険だと思っているのだそうです。

 府中保健所のデイケアもそのようなものだろうと思っていましたが、参加して1か月もたたないうちに面白いと思えるようになったのだそうです。メンバーのもつ健康さが「こんなにも豊かで力強いものか」と感じたからだと言います。参加したばかりで気づかずに緊張していたのか、メンバーから「コーヒーどうぞ」と出されたときにほっとした気持ちに気づいたのだそうです。デイケアは患者さんたちが病気を治す場であるというよりは、彼らのもつ健康な部分を育てる場であると感じたのだそうです。スタッフにとってはたびたび新鮮な体験になっていると思えたのだそうです。

 尾崎先生がデイケアに関わる以前は、患者さんと関わる機会は病院の外来での個別面接のときぐらいだったので、そこで見せる顔はまったく異なった別の様子を見せてくれる得難い体験と思えたのだそうです。デイケアメンバーたちの健康度が回を重ねるごとに向上していくさまをみて、興奮してのめり込んでいた時期と、その後それを反省する時期がありましたが、府中保健所デイケアの要因を考えたとき、スタッフ同士のチームワークがよいとか、仲がよいとか、役割分担がうまくできているからというのではなく、それぞれが互いに個性の違いや専門性の違いを明確に認識しているからだと思いました。

 その場にいて驚いてしまうほど直接的な批判をしあい、補いあっている関係が、保健婦とグループワーカーたちのなかにあるからだと思いました。スタッフ・ミーティングで「あの発言は照れ隠しだったのでしょう」などとズバリ指摘されたり、臨床家としての得難い経験を数多くさせてもらったと思っていると言います。スタッフたちの年齢や経験がちょうどよかったためか、デイケアを運営して行く上での構想が次から次へと沸いて出たそうです。なぜこんなチームができたのかその理由がわかれば、ほかにもつくれると思いましたが、そのときには答えは出ませんでした。あとになって得た結論は「偶然」という答えでした。

 しかし府中保健所のデイケアは保健婦たちのなかにしっかりした思いがあって、病院のワーカーたちなどに協力を求め、その関係を大切にする気持ちと地域活動全体を見据えた広い視点を持っていたことが、予想を越えた成果を得たといえるのではないかと思います。

(おざき あらた 日本社会事業大学 助教授、 取材 中嶋柏樹)

 

 

府中保健所の精神保健業務の概要とその変遷

 昭和40年に精神衛生法の一部が改正された。これに伴って、保健所法において新たに保健所の業務として精神保健に関する事項が明確に規定された。それを受けて、昭和41年2月に保健所の精神業務について「保健所における精神衛生業務運営要領」が出された。ここに、都の保健所における精神保健活動が始まったのである。昭和41年度、都では保健婦のなかから専任で保健所精神保健業務を担当する精神衛生相談員を募集した。最終的に、都の保健所には5名が精神衛生相談員として配属され、保健所の精神保健事業が開始された。

 府中保健所では、昭和42年4月に1名の相談員が配属され、同月より精神衛生相談事業を開始した(月1回の精神衛生相談日を設けた)。昭和44年には精神衛生相談日が月2回に増設され、訪問活動もこの年から正式に開始された。昭和45年には都の精神科医師による同行訪問活動や精神障害者の社会訓練事業として、「精神衛生職親制度」が開始された。府中管内においても同制度の利用があった。また、この年には民生委員や養護教諭を対象に精神病予防について講演会が行われ、精神保健について普及啓発活動も開始されている。

 この当時を知る保健婦は、「保健所内で、精神障害をもつ数人の女性を集めて袋張りの作業をして、作業所の前身のようなことをしていたこともあった」と語っている。昭和45年〜46年は精神衛生相談員を中心とした精神保健活動の最盛期であったと言えよう。しかし昭和47年に府中保健所では相談員が退職し、保健所の精神保健の活動は一挙に減退した。このことは、別表中の相談・訪問数の減少に顕著に表れている。翌昭和48年には精神衛生相談開設日は、月2回から1回に減少した。その後昭和52年ころより再び保健婦を中心に、精神保健活動が意欲的に取り組まれるようになった。

 今度は以前のような保健所内だけの活動ではなく、地域の病院、福祉など関係機関と連携するなかでの精神保健活動が目指され、地域ネットワークづくりの取り組みが始められた。時期を同じくして地域のなかにも熱心な医師が現れた。この医師は家族会の顧問として、地域の精神衛生に奮闘された。保健所でもこの医師に精神衛生相談の担当をお願いした。このような個人の熱意、努力から保健所、病院、福祉事務所の地域連携が有効に機能し始めたのである。 昭和54年には家族会定例会へ保健所業務として参加することになり、毎月保健婦が定期的に交代で参加するようになった。

 昭和55年には精神衛生相談日を、再び月2回に増やした。担当医師は1回を府中病院の医師に、あとの1回は斎藤病院、根岸病院の医師に隔月交替で担当してもらった。 昭和50年に出された厚生省の通達をもとに、都では昭和55年に社会復帰促進事業実施要領が出されデイケアが事業化された。デイケアの実施について、多摩地区の各保健所に順次依頼があった。府中保健所では地区関係機関とともに事例検討を含む綿密な会議を重ねた結果、デイケアは56年6月より実施されることとなった。デイケアの開始により精神保健活動が活性化され、地域ネットワークが大きく広がった。別表でも、デイケア開始の翌昭和57年から所内相談数の大幅な増加を見ることができる。

 このように精神保健活動の高まりのなかから、昭和55年ころから随時行われてきた事例検討会を連絡会として位置づけることになった。昭和58年2月より「地域精神衛生業務連絡会」として発足し、関係者が集まり、事例検討会を中心に定例会をもった。また同じ時期(昭和58年)に、精神医学総合研究所(社会精神医学研究室)より府中をフィールドに研究したいという申し出があり、受け入れにあたって検討を重ねた。具体的には、お互いの仕事を理解する場、保健婦として技術が向上する機会としてデイケアへの参加や、両者による事例検討会「精神衛生看護事例検討会」を隔月にもち、昭和58年11月から平成2年まで続けられた。

 昭和60年ごろより地域の作業所づくりの動きが高まった。作業所づくりにあたっては、保健婦も市役所や精神保健センターなど関係機関への働きかけを地域の人たちと一緒に行い、ふたつの作業所が誕生した。昭和60年3月には地域精神保健連絡協議会の設置要綱が出され、それに伴って昭和61年11月に第1回協議会が開催された。昭和62年1月、協議会の下部組織である精神専門委員会が開催された。これにより業務連絡会は発展的に解消したが、参加メンバー、会の趣旨は概ね引き継がれていった。 昭和58年老人保健法の施行に伴う保健所の精神業務として、老人精神保健相談指導実施要領が加わった。

 平成2年1月より老人精神保健相談を月1回開始した。痴呆性老人をもつ家族の要望があり、老人精神保健相談日に家族の集まりをもつようになった。これは後に府中市社会福祉協議会において家族介護者の集いがつくられ、保健所における集いは平成4年度で終了している。また平成2年12月より酒害相談事業として、月1回家族を対象としたミーティングを開始をしている。地域では、平成元年、病院デイケア1か所、平成4年度には新たに作業所2か所が発足し、府中病院精神科入院病棟の新設、多摩総合精神保健センター開設などの地域の社会資源が大きく広がりを見せている。この時期も、作業所開設にあたり運営委員会に参加し協力している。

 平成4年度の「精神障害者ネットワークづくり事業」の開始に伴い、社会資源案内書の作成(精神保健ガイドブック)、ボランティアの育成研修、チーム訪問相談事業などが事業として打ち出された。平成5年度に精神保健ガイドブックづくりの打診があった。作成にあたり精神専門委員会の拡大委員会を開き、「精神保健ガイドブック」を作成した。これは他の地域のガイドブックづくりのさきがけとなった。 精神保健委員会では、平成2年度よりシンポジウムを開催してきた。平成4年度には精神専門委員会で「精神障害者の住まいを考える」が開催された。この会がきっかけとなり、専門委員会の有志が集まり平成4年12月にグループホーム小委員会が発足した。

 平成5年4月には運営委員会として独立し、グループホームが発足した。平成6年4月に市より予算化され正式認可された。従来の精神保健医療を中心としたネットワークから、精神障害者も安心して生活できることを目指し、「生活者」の視点からとらえた福祉分野のスタッフが中心となった、より広範なネットワークが結集されたといえる。平成6年度には地域のなかで高齢者介護支援センターが5か所活動しており、高齢者の精神保健問題がセンター等からもちこまれるようになり、個別相談事例のまとめを行っている。平成7年度にはネットワークづくり事業の第2段階として、ボランティア育成講座を開催した。

 府中市社会福祉協議会、府中地域福祉会えりじあ、保健所の三者共催で、管内作業所および病院の協力を得て、中学生対象および関係者対象にボランティア講座を開催した。なお同年(平成7年度)より「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」(略称、精神保健福祉法)に改められ、精神障害者の福祉が位置づけられた。これにより精神障害者福祉手帳が交付されることになった。平成8年度より、従来の「保健所における精神衛生(精神保健)業務運営要領」を全面的に改め「保健所及び市町村における精神保健福祉業務運営要領」が定められ、市町村を含めた地域での活動を軸とした社会復帰の促進や、自立と社会参加について明確に位置づけられた。

(飯島 康代 記  府中保健所 保健婦)

 

 

 府中市の精神保健活動との出会い 

相澤和美

1 都立多摩総合精神保健福祉センターの誕生

 都立多摩総合精神保健センターは、平成4年7月に事業開始し、平成7年の「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」を契機に都立多摩総合精神保健福祉センターと名称変更しました。東京都における設置は、昭和56年「東京地方精神衛生審議会」の答申において、都内に3か所の設置が明記されました。そして61年には第2次東京都長期計画が出され、62年の総合実施計画のなかで、多摩・区東部の計画が策定されました。そこで60年開設の都立中部総合精神保健センターに続き、多摩地区を担当する施設として当センターが誕生しました。

 当センターの目的は、多摩地域の精神保健活動の支援・協力を行う精神保健福祉センター機能と、精神障害者社会復帰施設(援護寮)を併せ持った精神保健に関する総合施設とされています。府中市と当センターとの出会いは、長い府中市の精神保健活動の歴史からすると極く近年の出来事と言えます。 私は、精神保健福祉センター部門、地域保健部広報援助課援助係として平成4年7月から平成8年3月まで府中市に出向いていました。そこから得た、4年間の府中市の地域精神保健活動に対する私の印象を述べたいと思います。

2 地域ニーズに添ったバランスのとれた保健所活動

 府中市の精神保健活動との出会いは、平成4年7月16日府中保健所における精神保健専門委員会での事例検討(けやきの杜精神衛生相談室からのレポート)に初めて参加したことからでした。そしてその年には、第3回精神保健シンポジウム「精神障害者のグループホームを考える」が、保健所主催で開催されました。ここでは、保健所精神保健専門委員会活動の長年の積み重ねから、保健所と地域関係者との問題意識、「精神障害者の住居問題への対応」の共有が図られ、一体となって取り組む地域ネットワークと、運動としての高まりがありました。

 この年には東京都が、都の単独事業として精神障害者グループホーム運営費補助事業を開始したところでしたので、具体的にグループホーム設立準備活動に結びつき、保健所保健婦の積極的な支援のもとに小委員会が結成されました。私も役に立ちそうな情報やノウハウを可能な限り集めて提供し、また東京都精神保健課との連絡調整をさせてもらいました。センター職員として日の浅かった私は、この地域活動の土俵に受け入れられ、お手伝いをしながら「センターが協力する」ということについて多くを学ぶことができました。

 その後この活動は府中地域福祉会えりじあを生み出し、府中市の新しい精神保健福祉の活動の源となっていると思います。 府中市の精神保健活動を概観するときに特徴と思えることは、保健所の活動と共同作業所を初めとして病院、クリニック、民間の相談所、社会福祉協議会等の活動が、それぞれ独自の活動をもち、生かし合いながらひとつに結束する力と信頼関係を持っていることだと思います。 例えば、保健所は都の「精神障害者社会復帰ネットワーク事業」の一環として、平成5年に「社会資源ガイドブック」作成、平成7年には「ボランティア育成事業」を実施されました。ガイドブック作成においては、保健婦に加えて事務職と地域関係者の協働作業によって、他の地域のお手本となるようなガイドブックを完成させました。

 それによって地域関係者との意志疎通と連携がますます深まったようですが、何よりも保健所における精神保健活動の取り組みが組織的になり、保健所組織としての支持を受けながら保健所活動がますます生き生きとしてきたように思えました。 また、ボランティア育成事業のボランティア講座にいたっては、課題を同じくしながら保健所、社会福祉協議会、府中地域福祉会えりじあは、それぞれの持ち味を生かし、違った視点、違った立場から共同企画し独自主催しました。具体的な説明は省きますが、各機関が自分らしさを見事に発揮しつつも、保健所事業として全体的に統合されていることに目を見張るものがありました。

 府中保健所は都の保健行政機関として、事業の一部を地域関係者とともに展開することで、相互に影響を与え協力しつつ、精神障害者が住みやすい地域環境を作り出していると言えます。 そして保健所デイケアの運営についても、随時メンバーや運営上の特徴、問題の変化(境界例やOB数の増加)をとらえグループワーカーとともに、さまざまな社会資源(7つの共同作業所、2つのグループホーム、2つの病院デイケア)が増えてきた状況のなかで保健所デイケアの役割を検討する等、地域ニーズに応える貴重な社会復帰資源になっていると思います。

 保健所活動が地域関係者に支えられ、また関係機関の運営を必要に応じて保健所が支援することから、相互の理解や問題意識の共有化によって地に足のついた活動が行われていると思えます。保健所の地域ニーズに添ったバランスの取れた活動が、他の地域活動とともに府中市の精神保健活動のエネルギーになっていると思います。

 3 元気の良い地域活動

 一方、他の関係機関における精神保健活動の取り組みについても、この4年間さまざまなことがありました。2つの病院デイケアの開設、訪問看護、就労援助、地域交流(ボランティア育成講座)への取り組み等です。当事者活動や就労援助を中心とした2つの共同作業所の設立、そして地域関係者に共通する願望としてあった2つのグループホームの新設が相次ぎました。 病院や共同作業所、グループホーム、社会福祉協議会等それぞれの立場からの活動が、元気のいい府中市の精神保健活動のベースとなっていると思います。

 特に保健所活動から生まれ自立していった府中地域福祉会えりじあには、当初からお付き合いさせてもらうことで、民間のボランティア的で自由な創造性にあふれた人たちが集まり、作り出す活動に多くを学びました。公的機関としてのセンターの役割や限界もそこで知りました。府中にはいろいろな活動母体がありますが、その個性は、支えている人たちによるものです。いろいろな人たちのキャラクターや経験、考え、夢が花咲いていくプロセスに付き合えたことを宝としていきたいと思います。

 4 住みやすい街づくりとしての精神保健福祉活動

 これから地域保健法に基づく東京都の「地域保健対策の推進に関する基本的な指針」によって、平成9年度には保健所機能が大きく変化します。地域住民・関係者へのサービス低下がないようにシステムが検討されていますが、いくらかの心配や混乱があるかと思われます。いずれにしても府中保健所は広域的・専門的・技術的拠点となって、地域とはこれまでと違った関係になって行きます。これからは市町村の役割がより大きくなり、地域事情・実態に細やかに対応した施策によって、地域住民および関係者が直接サービスを受けられるようになってきます。

 したがって府中市の精神保健活動は、今後ますます地域主体の活動が重要になってきますが、幸い府中市行政の精神障害者問題への理解は高いので、心強い限りです。 障害がある人もない人も、もてる力を発揮し市民として安心して暮らせる街づくりは、心の健康づくりから精神障害者問題への市民活動がなによりも基盤となります。それを市が行政的な面から、都の保健所が精神保健の専門的な面から支援し、そしてセンターがそれを総合的にお手伝いすることになるかと思われます。 今後とも府中市関係者の活動を心より応援し、今後のますますの活躍を期待しています。

(あいざわ かずみ 東京都立中部総合精神保健福祉センター 看護婦)

 

 

 府中ネットワークを中心とした地域の精神保健史

                         []内は全国(主に東京都)

S14年 宇田病院創設 現在の浅間町旧保健所法(昭和12年4月制定)に基づき東      京府立北多摩保健所として発足(現府中保健所)

17年  根岸病院 西府村本宿(現武蔵台)に分院を設立

18年  都制実施により、東京都立北多摩保健所と改称

21年  根岸病院 本院(上野根岸在)が東京大空襲の戦火により消失したため分院を本院に変更

23年  新保健所法(昭和22年9月改正)に基づき東京都北多摩第一保健所と改称

[S25年 精神衛生法成立施行 自傷他害のおそれのある精神障害者の措置入院と、保護義務者の同意による同意入院、私宅監置の廃止]

26年  東京都北多摩第三保健所(現武蔵野保健所)が新設され、武蔵野市、三鷹市、東村山市、田無市、保谷市、清瀬市、東久留米町が移管

27年 東京都府中保健所と改称

29年 市制施行に伴い、府中市福祉事務所設置

[29年 民間精神病院建築資金貸付事業開始]

32年 宇田病院を引き継ぎ斎藤病院と改称

[35年 東京都立梅ヶ丘精神衛生相談所開設]

36年 東京都田無保健所が新設に伴って府中保健所から小平市が移管

38年 教育委員会 教育相談開始府中史社会福祉協議会発足

39年 東京都小金井市が新設に伴って府中保健所から小金井市、国分寺市が移管

[39年 ライシャワー事件起きる]

[40年 精神衛生法改正 精神衛生相談所を精神衛生センターに改正、地方精神衛生審議会・緊急措置入院・通院医療費公費負担の規定の新設 東京都地方精神衛生審議会設置 全国精神障害者家族会連合会(全家連)結成]

[41年 精神衛生センターを台東区下谷に開設]

42年 府中保健所 精神衛生相談員配属

[42年 第15回精神衛生全国大会を東京で開催]

43年 府中市精神障害者を守る家族会結成(通称梅の木会)

[43年 東京都精神障害者を守る家族会(東京つくし会)結成]

44年 東京都武蔵調布保健所の新設に伴って府中保健所から調布市、狛江市が移管され、所管区域は府中市のみとなる

[44年 自閉症児療育事業相談]

45年 府中保健所 精神科嘱託医制度始まる

[45年 精神衛生職親制度事業開始 共同住居「やどかりの里」大宮市に発足]

46年 断酒会 市民会館にて京王支部として発足

[46年 小児精神障害者医療費公費負担事業開始]

[47年 世田谷リハビリテーションセンター開設]

[48年 東京都精神障害者を守る連合会(つくし会)に相談指導事業等委託開始
地精審答申「東京都における精神病床の適性数に関する答申」]

[49年 作業療法・デイケア点数化]

50年 欅の杜 地域精神衛生懇談会発足

[50年 保健所社会復帰促進事業開始]

51年 府中市役所 保健婦による老人健康相談開始

[51年 精神衛生課世田谷分室開設(梅ヶ丘分室は廃止)東京では初めての共同作業所「あさやけ第二作業所」開所]

52年 都立府中病院 精神科外来設置 診療始まる

[52年 精神衛生対策委員会(第一次)報告(精神科救急医療体制)]

53年 府中市役所 厚生課にて老人訪問看護事業始まる
    
欅の杜 精神衛生相談室開業

[53年 精神衛生課梅ヶ丘分室開設(世田谷分室廃止)夜間休日時の精神科救急医療体制発足]

54年 欅の杜 プロジェクツけやきのもり 発足

[54年 精神衛生対策委員会(第二次)報告(精神科身体合併症医療体制)]

55年 府中保健所 事例検討と情報交換の会スタート

56年 府中保健所 デイケア開始 斉藤病院・根岸病院 保健所デイケアへケースワーカー派遣 府中市社会福祉協議会 府中市精神障害者を守る家族の会「勉強会」へボランティア派遣開始

[56年 精神科身体合併症医療体制発足、民間精神病院歯科診療補助開始精神衛生センターで酒害相談開始、精神障害者作業所運営費補助開始 地精神答申「精神障害者の社会復帰体制に基本的あり方と東京都の役割について」]

58年 府中保健所 地域精神衛生業務連絡会発足 府中市役所 老人保健法の施行にともない、老人訪問看護事業が厚生課から健康課へ移管

[58年 老人医療一部負担金助成事業開始 保健所老人精神衛生相談開始 医療施設内精神科デイケア実態調査報告]

59年 府中市役所 老人保健法に基づき健康なんでも相談を開始 健康課老人訪問看護事業を府中市訪問保健指導として実施

[59年 精神衛生対策委員会(第三次)報告(アルコール精神疾患医療体制)]

60年 わかまつ共同作業所開所

[60年 中部総合精神衛生センター開設 都保健所に地域精神衛生連絡協議会設置開始 精神衛生職親制度を通院患者リハビリテーション事業に切り替え 医療施設内小規模精神科デイケア運営費補助開始 厚生省保健医療局長通知「精神病院入院者の通信・面会に関するガイドライン」]

61年 府中保健所 地域精神保健連絡協議会発足 梅の木の家共同作業所開所

[61年 保健所酒害相談開始 精神衛生対策委員会(第四次)報告(痴呆性老人保健医療体制) 精神科集団精神療法、ナイトケア、訪問看護指導科点数化]

62年 府中保健所 地域精神保険連絡協議会専門委員会発足

[62年 アルコール精神疾患専門病棟整備費補助開始]

63年 府中市役所 精神保健をテーマにした健康教室開始 小麦屋 職親契約 府中市役所 乳幼児健康診査を通じて発育の遅れのある幼児および育児に不安のある母親を対象に精神的ケア始まる

[63年 精神衛生法等の一部を改正する法律(精神保健法)施行 精神障害者福祉ホーム運営補助開始]

H1年 根岸病院 小規模デイケア開設

2年 府中市役所 相談者のプライバシー保護のため保健相談所設置 府中保健所 アルコール家族ミーティング開始 梅の木会 家族対象に心の相談室始まる 都立府中病院 救命救急センター設置 リエゾン精神医療需要増大

4年 都立府中病院 精神科入院病棟新設、夜間休日精神科実施 クラフト若松開設梅の木会 童里夢工房共同作業所開所 えりじあ グループホーム設立小委員会発足、府中市グループホーム運営委員会と名称変更 府中市役所 福祉事務所が福祉部生活福祉課と名称変更

[4年都立多摩総合精神保健センター開設 精神障害者グループホーム運営費補助開始]

5年 精神保健ガイドブック作成 えりじあ グループホームロードハイツ開所 府中市グループホーム運営委員会から『えりじあ』名称変更

[5年 精神障害者社会復帰促進センターの創立 障害者基本法成立]

6年 吉沢メンタルクリニック開業

[6年 地域生活援助事業(グループホーム)の制度化 保健所法が地域保健法と改称]

7年 えりじあ グループホームてんてる舎開所 梅の木会 レスポワール工房共同作業所開設 斉藤病院 小規模デイケア開設 根岸病院 小規模デイケアより大規模精神科デイケアに変更 府中市役所 福祉相談室設置 府中保健所 ボランティア講座共催(社協、えりじあ等と)

[7年精神保健法の一部改正(精神保健および精神障害者福祉に関する法律) 社会復帰施設の4類型(精神障害者生活訓練施設・授産所・福祉ホーム・福祉工場) 社会適応訓練事業の法定 精神障害者福祉保健手帳制度創設]

 

 

 

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