動物行動学のパイオニア:平岩米吉 

 

人間の最良の友「犬」を、科学的な眼と、深い愛情によって理解した。
およそ43年の間に飼育した60余頭の犬たちの残していった生命の記録
である。私は観察しただけで、主役はあくまで彼ら「犬」たちなのである。

 

               動物心理学者:平岩米吉

 

 明治31年(1898年)に、東京亀戸の豪商(竹問屋)に長男として生まれる。 幼い時から川端玉章画伯に師事して日本画を学んだほか、博物学、動物学、心理学、 国文学、仏教学を独学。邸内に家犬のほか、犬科、猫科、ハイエナ科、 ジャコウ猫科、熊科、などの野性動物を飼育して、博物学的視点から動物の行動を研究した。 研究の進展に伴い関心が動物学的から心理学的へと変遷し、現代の動物行動学にとっての 創始的研究実績を数多く残した。

 

 

 従来の実験および理論のみの学説を排して
すべて犬群の自然の行動からその心理を
著者独自の見方によって解明している。

 

 

 昭和3年(1928年)に、日本犬保存会の設立に参画し、昭和9年(1934年)に、 動物文学会を創立。動物文献の収集整理とともにシートンやザルテンなどを紹介。 同時にフィラリア研究会を作り、難病克服の道を開く。
 昭和12年(1937年)に、犬科生態研究所を発足。イヌの行動研究を主活動として、 種の保存に重点を置いた啓蒙活動ならびに私財を投じての動物愛護活動に尽力した。 昭和61年(1986年)没。

 

 

チムとプッペは仲良し夫婦です。
このような夫婦関係がどのように
して成り立つかというと、全く牝
の自由な選択によるのである。
 

 

 「刷り込み」として広く知られる刻印づけ(inprinting)を提唱して、 動物行動学の創始的権威としてノーべル賞を受賞したロレンツ( K,Z,Lorenz)と同時代に活躍し、 優るとも劣らぬ研究業績を残したが、日本動物心理学会はそれを評価せず、 動物文学者として高く評価し遇したのである。

 

 

 昭和4年のこと、まだ全くの田園
地帯であった目黒区自由が丘に土地
を求め、たくさんの犬たちをはじめ
狼、ジャッカル、狐狸、ハイエナ、
ジャコウ猫、月の輪熊、山猫などを
  放し飼い同然にして生態観察をした。

 

 

 

 

 昭和十二年一月 平岩米吉「動物文学」誌

動物を知ること

 

 雑誌「動物文学」を創刊してから早くも第四年を迎えることになったが、この間に事ごとに深く感じさせられたのは、動物を知らぬ人がいかに多いかということである。ある人は「その鳴き声だけで、どの猫だということがちゃんと分かるのだから、けだし猫好きの横綱」云々といって感嘆したが、猫にせよ、犬にせよ、あるいは鳥にせよ、飼い主であって、その飼っているものの鳴き声が判別できないというようなことは、むしろありえ得ないことと思う。これは分かるのが当然なのである。

 

 

野性の狼は遠吠えだけで、犬のよ
うにワンワンと吠えることはでき
ない。著者が飼育した9頭の狼は
犬のように吠えるようになった。

 

 

ところが、この「当然」という言葉がさらに他の人々の反響を呼んだのだから、意外というべきである。もっとも、これは主として文学の愛好者たちの間で起こったことであるから、あまり取り立てていうほどの必要もないかもしれぬが、時には、動物文学の分野に関与する他の一半の人、すなわち動物の愛好ないし研究者たちの間においても、はなはだしい無知に遭遇することがあるのである。

 

 

 家犬の先祖の探究は多くの先覚に
よって試みられたが、形態の論究に
片寄った。探究の残された唯一の道
は出来る限り多くの狼を出来るだけ
自然の状態で、飼育するに帰する。

 

たとえば、訓致と訓練の区別をさえわきまえず、平然これを同義語と解する人の存在するがごときである。いうまでもなく、訓致とは、動物と人とが信頼と愛とをもって結ばれる関係を醸成することのいみで、狼のようなものでも馴れれば、そのご主人に対し尾を振ったり、鼻声で甘えたり、身体をすりつけたりするばかりか、感きわまれば尿までもらすほどの歓喜の乱舞を演ずるのである。

 

 

平岩米吉は天性、文学的なものと、
科学的なものという相反する二つ
の傾向をもっていた。30代を過
ぎると科学的色彩が強くなったが、
そして晩年それらの融合を目指した。

 

が、これはジャック・ロンドンが「ホワイト・ファング」の中で描いたような懲罰や威嚇による方法からは絶対に誘致し得られぬので、私がかつて「ホワイト・ファングは狼の訓致を題目としたものであるが、その方法はあらゆる生物を心服せしむる根本の精神と全然背馳している」(動物文学誌第十九輯「動物文学に就いて」)と書いたのももちろんそのためである。

 

 

 我々人間が自身の内に見い出せば、
かならず賞賛するものを、犬は普
遍的に所有している。すなわち、
  忠実、勇気、愛情である。
    

 

 

 しかし、こういう愛情の存在なしに、なお野獣をして一定の行動に服せしめることもできるのである。多くの捕えられた野獣は、人と相対する場合、おおむね逃避の態度をとるせので、逃避の不可能な位置において一定の距離以内に人が迫った場合、初めて襲撃の態度に変ずるのである。この動物の習性を利用して、あるいは後退させ、あるいは前進させ、任意の位置につかせるのせ当然なし得ることで、さらにこれを一方に食餌、一方に鞭(すなわち賞と罰)をもって誘導すればいわゆる訓練された獣ができるのである。

 

 

より多く私を動かしたものは彼らの
純一類なき愛情である。彼らは私を
絶対の権力者であると同時に真実の
友として認め、無限の信頼と愛とを
もって一身を掌中に委ねるのである。

 

 

が、これは心服でなくて屈服であるといわねばならぬ。もちろん訓致された動物に、さらに訓練を施すこともできるが「飼い馴らされた動物」と、「芸を仕込まれた動物」とが同じものでないことは明白である。私が「ホワイト・ファング」についていったのは、前者、すなわち愛情を基礎とする訓致の場合であって、もとより、賞と罰とを必要とする後者、すなわち訓練の意味ではないのである。

 

 

熊の子はたいがい2頭生まれる。それは
牡と牝であることが多い。牝100対牡
105ぐらいでヒトの出生時の性比と一致
する。乳幼児期死亡率の高い牡の出生率が
高いのは自然の摂理と思われる。
    

 

しかるに、この両者を混同し、動物を訓致し心服せしむるには「賞よりも罰の適用が、さらに賞と罰との併用がより効果的である」と述べる研究者があるのだから驚嘆する外はない。いまさら、声を大にして叫ばずとも、動物の訓練に賞罰の必要があることを知らぬものが果たして何人あるであろうか。しかもその訓練においてすら、愛情をもってなすべきことはまったく常識の範囲内にあり、人であると、鳥獣であるとを問わず、形式的賞罰のみをもって、そのすべてを左右し得るものと信ずるくらい、愚かなる妄想は存在しないのである。

 

 

 

 オオカミとイヌの交配による混血種は、
永続的に子孫を残すことなく数代の後
消失してしまう。しかもその各代を通
じてイヌに似たものが産出される。
  

 

 そして、かかる精神生活を無視せる妄想をもって、野獣訓致の過程を云々し、果ては「ホワイト・ファング」の文学的価値にまで言及しようというのであるから、その言説が、どんな結果に終わるかは改めて説明するまでもなかろう。忌憚なくいえば、これは単に動物を知らぬというばかりでなく、むしろ精神的欠陥ある人の所行としか受け取れぬのである。「作中の動物は実に生動的であり、その故にすぐれたる動物小説」云々というのも、同じ人の言葉であるが、実際の動物(「ホワイト・ファング」の場合には犬と狼)についてはほとんど何物も解せず、机上の概念(それも歪められたる)をもって生動的と称せられる作品こそ実に禍いというべきであろう。

 

 

 

 イヌは時間の観念が驚くほど正確で
ある。天候による明暗や食事の時間
との関係などを種々調べてみたが、
結局彼らの時間に対する理解の正確
さは、そういうことには左右されな
いことが分かった。
       

 

 

 なお、私が、「一般の文学で許容し得る通俗的の誤謬も、動物文学の領域においては厳にこれを排除すべき」ものとし、その例をとくに「ホワイドファング」に選んだ(動物文学誌第十九輯「動物文学に就いて」)理由は、この作品がわが国においてもっとも広く知られ、かつ、多くの盲目的心酔者ないし模倣者を有するからであることをここに付言しておこう。新しい、というよりも真の動物小説の開発のためには、この種、聖書視されているものに厳正な検討批判を加えることが、もっとも有効であると考えられるのである。

 

 

 動物の習性は「その動物の食物を
獲得する方法によって決定する」
という法則をもって研究の基準と
している。あらゆる動物は生存の
ために食物の獲得に汲々としてい
ることからの判断による。
   

 

 

 さて、そこで、動物を知るということであるが、これはいうまでもなく、知識のみでもなく、また体験のみでもない。その両面にわたることを必要とするが、とかく、動物の研究者が前者のみに傾きやすく、また、動物の愛好者が後者のみに傾きやすいというのが今日の情勢である。が、いずれがより動物文学を生むための重要さを有するかといえば、私は直ちに後者である事を断言する。

 

 

 ハイエナには奇妙な習性がある。
肛門の下に特殊な嚢があり、それ
を反転させて粘液をいたる所にこ
すりつけて歩く。理由を確められ
なかったが犬たちは好んで舐めた。

 

 

 動物と文学の両地域にまたがる人さえ僅少なのに、さらに動物を学び、かつ動物と生活することを必要とするのであるから、動物文学建設という仕事の前途はいよいよ難事であることを痛感させられるのである。 

 

 

イヌとオオカミは遠吠えをするが
走りながら遠吠えするのは、犬だけ
である。なぜそうなったかは分から
ないが、走りながら遠吠えをすると
鳴き声は自然とワンワンとなった。
 

 

 


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