And if you love them that love you,what thank have you?for even sinners love those that love them.  luke6-32

中島柳樹(なかじまりゅうじゅ)1900〜1962 今も健在な妻・ヤス子から詳細を聞き取ることが可能でも、生育・生活歴が一本の線として繋がらない空白部分を全て埋めることは出来ません。そこで小説という手法をとってその空白部分を推測で埋め繋げました。そのために過去に消え去った真実と異なることがあるかも知れませんが、これを読む何方からもお許し頂けるものと考えます。

ヤス子85才、意気軒高ネットサーファー

                                

 小説 中島柳樹

 上州群馬の精神風土に育ち、鴎外・森林太郎に似て否なる人生と業績を残した医師で洋画家。地域小児医療に従事する傍ら油彩画を描き続け、帝展に続いて日展の無審査という栄誉に浴した。戦後の劣悪環境の中で、学校医として学校給食の普及で栄養不良児と先天虚弱児の養育に尽力した。

 明治33年4月、群馬県多野郡中島村(現・藤岡市中島)に、父・徳治郎と母・艶の12人兄弟姉妹の長男として生まれる。−伝承によると中島家は天正15年(1587年)関白秀吉の九州平定により薩摩の島津家は東国へも拠点を置いたので、410余年前に徳川開幕直前の関東へ下った島津の分家は中島家と高津家に姓を分け中山道の要衝である烏川河畔に定住し、中島村の名主として営農の傍ら医業を代々継承して来ている。天明3年(1783年)の浅間山大噴火で江戸に大飢饉が起った際に、中山道へ流出した大量の避難民を待ち受け怪我人や病人の手当てをし、樹皮や野草が入った雑穀焼餅を提供したという。− 

 輸入した自転車と記念写真の徳治郎と艶。輸入外車のヤナセは同郷で、
創業当時は自転車も輸入していた。必ず袴で乗るものだったが、艶は
「赤い腰巻きをぴらぴらさせ」とゴシップ紙に書かれ、乗れなくなった。

  

       父・徳治郎 妹・喜久枝 弟・玉置   藤岡中学の夏制服姿 

 

 

  <松本亦太郎について>    

       

 父・徳治郎の旧姓は松本であり、烏川の対岸に位置する倉賀野宿中町(現・高崎市倉賀野町)の松本勘十郎と養子の松本亦太郎(旧姓飯野)とは極近い縁戚だったのではないかと思います。しかし勘十郎が亦太郎を養子に迎え徳治郎を養子に出したとするならば、その理由を想像することはできません。勘十郎は12歳で江戸の越後屋呉服店に奉公し番頭になり、やがて三井本店の支配人を勤めました。のち倉賀野町長となり、製糸所光塩社を設立し長野堰の改良を行いました。また倉賀野義塾と前橋英和女学校(現・共愛学園女子大学)の創設に関わりました。亦太郎は同志社英学校から海老名弾正の主催する東京本郷講義所で学び、帝国大学文科大学哲学科に入学し米イエール大学と独ライプニッツ大学のヴントのもとへ官費留学する。帝国大学の教授となり、日本初の心理学の実験室を作り心理学講座を開設する。わが国心理学会の黎明期に先鞭をつけた実験心理学者です。松本勘十郎も内村鑑三もそして新島襄へとクリスチャン繋がりを感じます。群馬県が先駆けて県議会で公娼廃止を宣言するなど、キリスト教先進県だったことが窺えます。         

 

 藤岡中学在学中に、地域に大発生した伝染病の治療に奔走していた父・徳治郎が過労のために感染し死亡した。中学卒業後に母・艶と親族の強い希望で、有能な開業医の養成で知られる東京慈恵会医学専門学校へ進学を目的にして上京したが、父親の早世が心に残っていて医専へは入学せずに東京美術学校の洋画科へ入学した。美校を卒業直前にそれが発覚し、勘当されかけて医専に入学する。 

   

  慈恵会の学生は英国紳士たることをモットーとした。(写真左の後列右から3人目)
  外科手術に陪席する基礎課程の学生はひな壇に並ぶ。(写真右のひな壇前列右端)
 

 

 学業の傍ら美校の時以上に意欲的に油彩画を描き続け、医専が大学に昇格した2年後大正12年に卒業し(関東大震災の年に卒業したので、同級会を震生会と呼んだ)、日本赤十字社で小児科医として医師の道を歩み始める。その赴任先の愛知県豊橋で幼馴染みの中山貞子との生活を始める。その貞子は郷里隣町の鐘淵紡績(株)新町支店工場* 工場長の娘で、藤岡中学**に進学したのは2人だけだった。男の子でも進学するのは珍しい時代だったから、女の子が進学するのは例外的なことだったが、東京から来た女の子だからと誰もが納得したのであろう。

 * 内務省勧業寮絹糸紡績所が民営化され三越呉服店新町三越紡績所となり三井家工業部の三井新町紡績所と変わり、鐘淵紡績(株)系列の工場となった。**旧制藤岡中学は男子校であり、女子は旧制藤岡高等女学校だった。中学は5年制で女学校は4年制だったようだから、貞子は1年先に上京したのだろうか。

 

  

 卒業式後の謝恩会での記念写真だろうか。(写真左の中列右から4人目)
印半纏に長生病院とある。初めての勤務先は長生病院だったらしい。妻・ヤス子と
銀婚式を記念して訪ねたが、だいぶ以前に閉鎖していた後だったと残念がっていた。
                          (写真右の前列右)

 二人はともに進学のために東京へ出たのだから、医専に入学せずに美校に入ったのを貞子は知っていたであろう。貞子は麹町区一番町(現在の千代田区)の自宅近くにあった津田梅子塾長の女子英学塾(後の津田塾大学)に入学したが、ともに東京に居てどのような交流があったかは知られていない。ただ柳樹が後に語るには、市電のストライキの時も、軍隊が出動した造船所のストライキの時も、実家に一人暮らしだった彼女のところに偶然にも泊まっていた。大学と病院がある新橋までの直線コース上にある国会周辺には軍隊が展開していて誰何を受け行きたくても行けなかったとのこと。(2.26事件の時もと言うのは、記憶違いであろう。)互いに卒業したら結婚するつもりの交際をしていたのであろう。

 就職と結婚を同時にスタートしたが、それを知った母・艶はそうすることが当然であるかのように、郷里へ連れ戻そうと依願退職の手続きをした。仕方なく郷里へ戻ったが亡き父が残した医院を継ぐことはなく、鐘淵紡績(株)新町支店工場の診療所長に就任した。そして妻・貞子は父・工場長の秘書となったようだ。しかし、これを黙って認める訳には行かない母・艶は、両家の間で話し合いを持ち、中島家の総領として亡き父の残した医院を継ぐことを要求した。当然のように話し合いに歩み寄りは無かったが、膠着状態があっさり消滅したのは、愛想を尽かした貞子が離婚を申し出てあっさり東京へ帰ってしまったことによる。     

 お江戸見たけりゃ高崎田町と唄われた県内随一の商都で、酒類の醸造から販売までを手掛ける最大手の坂井家との縁談が進み、長女雪子との再婚話が決まった。雪子は良妻賢母の資質を備えた大和撫子でしたから、新しい女性の生き方を摸索する先妻の貞子と対照的な女性であるところに魅せられたようであった。結婚し一女(由利子)が生まれ、市内北部にある県立高等女学校の西隣に、瑠璃瓦と白モルタル壁にプールのある欧風洋館の医院を建てて開業した。そして中島村に残した、唯一の診療所は「出張・中島医院」とした。それまで姓を「中嶋」と表記していたものを「中島」と変えたのは、ただ単に簡便さだけが理由では無かったようだ。

 それが顕著になったのは、妻と娘の3人家族で住むことを想定した医院の居住スペースに母・艶が強引に同居してしまったことから始まる。妻・雪子の産後の肥立ちが良好でなかったこともあり、本家の嫁であっても姑や夫の大勢の弟妹たちと住み込んでいる使用人たちと同じ屋根の下で暮らすことに不安があったためである。そのためには、母・艶が本家の新屋(烏川の大水で流失し、屋敷を新築したことから「新屋」と呼ばれていた。)にしっかりと腰を据えていて欲しかったのだが、一切を番頭に任せて屋敷を出て来てしまったのだ。

 医院の西隣に純和風二階建てを新築して、食堂を唯一の共用場所として他の居住スペースは全て別々にした。うまく住み分けられたかのように思えたが、妹たちが家の前の女学校へ進学するために同居した。結局、母親の下に弟妹たちが集結してしまったので、隣家に別居とはいえ、実質的には鬼数千匹との大家族となってしまった。 

左端が母・艶で、中央が柳樹と妻・雪子。そして弟妹たちの勢ぞろい。

 

 診察室とアトリエが廊下を挟んで隣接し、一日中どちらかの部屋にいるという満たされた生活の日々だった。しかし、妻子と親弟妹の間に挟まれた日々は消耗させられるばかりで、聴診器を持つことと絵筆をもつこと以外には目をつむってしまったことでもある。将来を心配した母・艶の強い勧めで結婚した雪子だったが、当時としても珍しい大家族の中で嫁を勤めることは難しく、由利子の病死が切っ掛けとなり、健康を害して実家に戻りそのまま離婚となった。ついで恋愛結婚したマキノとの間に四男(昌樹、桂樹、潤樹*、杏樹)が生まれ たが、長期に及ぶ 別居の後に離婚となる。当時として当然ではあった大家族に嫁ぐ嫁の問題に加えて、さらに母・艶に「長男は医師にして父親の跡を継がせたい」という強い意図があり、そのために弟妹たちの教育や将来のために必要があっても財産を分け与えなかったので、弟妹が結婚して離れて暮らした後も不自然な"大家族主義"が続いたためのようだ。

* 榛名山麓相馬が原で陸軍大演習があった際に、昭和天皇の行幸に伴い来高した陸軍中尉 愛新覚羅潤麒(あいしんかぐらじゅんき・満州国皇帝の義弟)の宿舎となった縁で、名付け親となって貰ったようだ。

 戦争が負けて終り、農地解放があり、新円切替えがあり、社会が大きく変わったことと無縁で無く、4番目であり最後の妻・ヤス子の献身的な努力で、弟妹たちや親族たちの戦中戦後の食糧事情を支え、満州から着の身着のままで引き揚げて来た妹の家族を支えたのを最後に、弟妹たちや親族たちと円満な関係を取り戻すことができた。二女(登樹子、津樹子)と二男(建樹、柏樹)が生まれて満たされた家庭生活を得たことで、高崎へ出た昭和の初めから続けていた地域保健活動や芸術振興により積極的に取り組み、村上鬼城など文人や中村節也など洋画家の活動を支援した。「国民皆保健」で無かった時代に、医療の恩恵に授かることができたのは、彼らに大きな励みになったようだ。

 群馬交響楽団の後援活動に関わり、映画「ここに泉あり」の完成にも尽力した。楽団のホームグラウンドとしての建物「音楽センター」を高崎市の中心地に建設することにも協力したが、最後まで名称は音楽センターではなく音楽の為のみでない「芸術センター」にしたかったと 残念そうに述懐していた。徳川夢声や石黒敬七らの「ゆうもあくらぶ」に参加し慈善活動と" ゆとり心 "の普及に尽した。校医をしていた市立北小学校での新年の挨拶は、ユーモアに富み生徒たちの心に残るお話であると有名だった。そして、ビール樽のような体型が毎回必ず洒落た焦茶の羽織と袴姿で壇上に上がるので、吉田茂総理大臣に似ているからと、生徒たちは小声で" 総理大臣"と呼んでいた。

 そして、毎回必ず来賓として挨拶するのが、当時、国会議員に初当選したばかりの中曽根康弘元首相だった。同校の卒業生であり、いつも学芸会で桃太郎役を演じた時の話をして、背が高く立派な体格を誇示するかのように「たくさん食べて、大きくなるように」と訓辞して挨拶を終わる。海軍主計少佐として外地を転戦し、現金や軍票を詰め込んだ醤油樽を大発(上陸用舟艇)に積み込んで砲弾の飛び交う海を幾度も航海したという武勇伝と共に、復員して青雲塾を興して青年を啓蒙する活動を始めた頃に天皇陛下にあやかって白塗の自転車に乗っていたという伝説は誰もが知っていて、生徒たちは親しみを込めて" 天皇陛下 "と呼んでいた。市立北小学校の" 総理大臣 "と" 天皇陛下 "が手を組み先頭にたち、お弁当を持て来れずに昼食の時間は校庭の隅で寂しい思いで遊んでいる生徒を無くすように「皆給食」の普及に尽力した。

 戦後の食糧事情が劣悪で乳幼児と小児の死亡率が高い状況の中で、"生まれながらの虚弱児"の療育を目的とした「虚弱児学級」を作った。病欠しても充分な食事を食べられずに寝ているだけの生徒を無くすためにも、学校給食が早期に取り入れられ、休んでいる生徒の家に級友が給食を届けた。なんでもマーガリンで炒めてしまうような高熱食(高カロリー食)を残さず食べるように強いられ、生まれつき食が細く生育の充分で無い子ども達にとっては生温い脱脂粉乳を飲まされることなどと同様に苦行だった。しかし、他のクラスには弁当を持って来られなかった子どもが少なからずいた時代だったから、必ず十分に食べられたということは大きな意味があることだった。

 昼食後に肝油を飲まされ昼寝をさせられ、夏休みには近郊の小林山達磨寺で「林間学校」と称した合宿訓練で鍛えられた。しかし「虚弱児学級」の生徒は元気になり丈夫になったといえ相変わらず小柄で痩せていたから、運動会では同学年の他クラスとは競技をしなかった。そして、このクラスは正式名称である「虚弱児学級」で呼ばれることはなく、他クラスの生徒たちからは、勝手に「養護学級」と呼ばれたり「特殊学級」と呼ばれたりしていた。ところが後に、それが別の意味で使われることになり、それが一般的になって現在に至っていることから、そう呼ばれた学級がかつて存在し、そこの生徒であったことは互いに言い出しにくくなっている。そのためにか、かつてのクラスメイトたちは強い連帯感で結ばれているようだ。

 群馬県は「空っ風とかかあ天下」で知られている。二毛作の麦穀で食糧の自給率が高く、養蚕で高所得が維持されていたが、その働き手の殆どが女性だったために「うちのカカアは天下一」と" お手柔らかに "との意味を込めて持ち上げたようだ。そのようなことから "男性文化"が隆盛を極め、有名なヤクザと大政治家を数多く輩出したが、同時に著明な文化人も宗教家も輩出している。鴎外・森林太郎の波乱万丈な人生と一面あい通じるものがあるが、このような精神風土の中で育まれたからこそ、芸術性も博愛精神もより効果的に開花したに違いない。

 

中島柳樹の作品を所蔵する方々にお願いです。

 デジカメで撮影して、ここに展示したいと思います。表面をクリーニングし裏面を修復し、更に長期保存を可能にしたいとも考えるからです。お借りしてお返しするまで、一切ご負担はお掛けしませんので、ぜひご協力下さい。

[作品集]  

 [ 工事中 ]

 

互いに、どこに惹かれて結婚したか、どこに思惑外れしたか一目瞭然である。

長女と長男がよく似ていて、次女と次男がよく似ている。 

 

 自動車とオートバイが大好きでした。

 

 妻・ヤス子と銀婚式を記念して撮影した。

 

 

自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれ程の手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。ルカ6−32 


 

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