治に居て乱を忘れず

 

 

 能の「猩々乱」は、 孝行の得によって霊夢を受けて酒を商い金持ちになった男が、水中に住む猩々と共に酒を酌み交わし,酔って愉しく舞い遊んだ末に猩々から湧酒の壺を貰う。その「 乱」は 緩急常ならぬ高度な囃子につれて波に浮き沈む変化ある舞で、「 双之舞」の小書きがつくと猩々が2人になってより華やかな舞台になる。これを「治に居て乱を忘れず」と、武家時代には年末の納会に必ず上演されました。そして、あの シェークスピアも「安心が、人の一番身近にいる敵である。」と、同義の言葉を残しています。かつては、古今東西何処でも常に「治に居て乱を忘れず」を念頭に置いていたようです。

 そして今は「平和ボケした日本人」と揶揄されているように、「治に居て乱を忘れた」ばかりでなく、大変な事態が起ってしまうまで、そのような事は起らないと思っているようです。地震、カミナリ、火事そして風水害などは大きな被害を引き起こし、多くの人たちを不幸にします。ある程度の被害は仕方ないとしても、人災でさらに被害を拡げてしまうのは残念でなりません。天災は忘れた頃にやって来ますが、それまでに必要な対応策を準備しましたら、被害は最小限に押さえ込むことが出来るのです。

 半世紀以上も戦争に遭遇することが無く平和ボケした私たち日本人は、北朝鮮からテポドンが飛んで来た時には大慌てをしました。そのテポドンがあの幕末の黒船効果を生み、大平の眠りを醒ます切っ掛けになったようです。 衆議院に憲法調査会が設けられ、「21世紀の日本のあるべき姿」をテーマにして議論を続けるようになりました。しかし情けないことに結果は見えています。指導者たちは日本を西欧列強に並ぶ「強大国」にしたいのです。 国連常任理事国入りを果たして「世界の一等国」にするのが悲願なのでしょう。日露戦争でロシアに勝ち脱亜入欧の証として「一等国民」であることが、当時の日本人の自負心を満足させたのと同じ意味なのでしょう。

 「戦争の世紀」だった20世紀の清算もなく、19世紀型国民国家を再現しようとする「改憲論」がやたら勢いづいています。グローバルな時代だから、日本独自の伝統文化を盛り込まなければならない。大国の役割として国連の活動を担い、世界に貢献するために不都合を是正しなければならない、というのが主な主張です。「民主主義」と「男女平等」の意識が上滑りして先行しているようで、力こそ正義の「男社会」は変わっていません。サミットやG8がその象徴で、だからこそ暴動化するほどの反対デモが起るのです。暴力に訴えるしか無いのは残念ですが、弱小国や少数民族が無視され続ける歴史は終わらせなければなりません。

 自分の考えを押し通すために、相手を殺してしまうのが戦争です。力こそ正義がまかり通り、一握りの国の一握りの人たちと、それに連なる人たちのみが富みを独占しています。その為に、世界中の多くの人たちが餓死と背中合わせの犠牲を強いられています。アメリカに押し付けられた我が国の「平和憲法」は、世界中何処にも無い理想的な憲法であるために持て余されていました。先の戦争に対する反省から9条擁護を訴える人たちのおかげで、修正され解釈を変えられながらも「戦争放棄」条項は命を長らえています。そのお陰で戦争に協力しない生き方が承認され、男性中心、多数民族中心の共同体を解体する可能性が残されました。

 憲法9条の維持によって近代市民社会の限界を超えて、「普遍的な人権」のあり方追求することが可能になります。9条は女性や少数民族というマイノリティが排除されずに、平等に人権が認められて共生社会を目指す世界史的に画期的な意義があるからです。 

 

 

 

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