「子離れ」と“親の務め”

         

 日本とアメリカの若者に対する「読書調査」でアメリカの若者は哲学、教養、実用書を好んで読んでいるのに対して、日本の若者は圧倒的に漫画とロマンチック・ミステリーを好んで読んでいるという結果が報告されていました。アメリカの若者は親のまるがかりとなっているのはわずかな期間ですから、独りで生きていくために必要な情報を読書によって得るためという事情があってのもののように思われます。それに対して日本の若者は、大学を卒業して就職するまで親がかりでいられるために、読書によって情報収集をし自活準備をするという必要がないためでしょう。

 日本とアメリカの若者を比較したときに、日本の若者はリッチで高級ブランドを身につけているとよくいわれることですが、確かに学費や生活費を自分で稼いでいるアメリカの若者達にとっては高価なものを身につけるなど思いもよらないことでしょう。日本の若者は学費や生活費を自分で稼いでいるわけではないばかりではなく、極端な場合には親がすべてを買い与え、行きたがらない海外旅行や大学進学まで積極的に親が行かせたがりますから、それが何処まで若者の意志であって、何処までがさせたがっている親の意志なのかを見極めるのは至難の業です。

 この頃になって「過保護」「過干渉」であったことへの反省から「親離れ」「子離れ」ということが良く言われるようになりましたが、そのわりには変化が見えてきていないようです。親たちにとってはそう簡単に変えられない理由があるのでしょう。赤ん坊や幼児にしてあげたいと思う「本能行動」のような気持ちと、自分たちがしたくても出来なかった「夢」を叶えさせてあげることで満足を得たいと思う「代償行動」はそう簡単に変えられるものではないのかもしれません。

 ところが義務感だけで親をやっている親とか、なかなか「親離れ」の出来ない子供にうんざりして仕方なく親をやっている親たちは、過保護、過干渉は好ましくない親の態度であるとして「扶養責任」や「保護義務」を放棄する口実にしようとしています。学校へ行けないとか、御飯が食べられないとか、子供の「問題」が社会問題として恒久化しています。出来て当たり前のことがどうしても出来ないというこの「症候群」の原因と思われることは色々いわれていますが、そもそも不妊症の治療で卵子の膜を自力では破って受精ができない精子の為にガラス棒で穴をあけてやって受精させてあげているということが全てを象徴しているようにも思えます。

 超未熟児であったり虚弱体質であったりしてちょっとした病気でも死んでしまったような子供が医学の進歩と環境衛生が充実したため死ななくなっているということと、かつては兄弟姉妹の数は多く暗に「不作」も考慮されていて、過大な期待という重圧は無く親は子供の能力に応じて期待するという状況があったわけですから、今の子ども達が置かれている状況や立場を考慮してあげずに、「過保護」「過干渉」を口実にして「親の義務」を遂行してあげなかったら子ども達が気の毒です。子ども達が救いを求められるのは「親」しかいないのです。「過不足なく」といういいかたがあるように、「不足」もあってはならないのです。 

 

 

 

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