超高齢時代の人々

 

 かつてのバブル時代に、知る人ぞ知るの映画に「木村家の人々」がありました。あの鹿賀丈史が主人公で、一流企業のエリートサラリーマンです。ところが自ら窓際族の吹き溜まりである社史編纂室へ移り、退社後に精を出すアルバイトのためにセッセと内職に励むのです。そして妻や子どもたちも二つから三つの掛け持ちアルバイトに専念し、貯金通帳の金額が増えて行くのを見るのが、なにより楽しみという内容のコメディです。あの頃は一億総財テク時代と呼ばれ、殆ど誰もが株式投資や宅建取引に興味を持っていました。

 そして平成不況の真只中に、あの円歌師匠の落語「中沢家の人々」が大受けのようです。内容は自伝風になっていて、ご夫婦の両親である4人のお年寄りとの日々が語られています。「落語家になったと家を追い出しておきながら、勘当した息子の家に入り込んで自分の家のような顔をしている」や「嫁を貰ったつもりはあるが、女房の両親まで貰ったつもりはネェーヤ」などに爆笑が湧いています。軽妙なテンポで雑言を終始言い放ちますがそこに暖かい気持ちがあり、安心して聴いていられることから大好評なのでしょう。

 ところが、ある老監督が老人問題をテーマにして映画を作りました。あの監督が老人問題をテーマにした映画を作ったということは話題になりましたが、上映された映画に興味を示しす人は多くなかったようです。不評だったのは現状とかけ離れていることらしくて、老人福祉の専門家たちは「こんな幸せな老人は今どき見当たらない」と言っています。他人事とは思えない老監督の願望と考えれば納得いく作品なのかも知れません。

 伝統的な嫁が姑舅の面倒を看る構図も、70才に近い嫁が90才に近い姑舅との共倒れ介護では、安心していられないことは今や衆知となっています。専門家たちはこの事態を予測して以前から提言して来ていますが、要介護予備軍のお年寄りたちは「住み慣れた家で子どもたちに面倒見てもらう」という幻想を捨て切れていません。子どもをたくさん産んでもらい親の面倒を見るよう教育するいう政治家もいます。しかし、この方法で「年金」は解決するようになったとしても、「介護」は解決しないでしょう。

 パンダやトキが大切にされているのは数が少なくなってからで、その数が多かった頃は乱獲の対象でした。お年寄りもその数が少なかったから大切にされたので、長寿の結果にその数がやたら多くなりますと、お年寄りであれば誰もが大切にされるということはなくなるでしょう。老人介護のボランティアでは介護した時間を貯蓄しておくという方法があり、将来必要になったらその時間分を無料で受けられるという制度があります。意味するところは「与えれば与えられる」という法則が世の中にあるということで、与えて来なかった人たちは与えて貰えないということなのでしょう。

 お年寄りばかりの時代になったら、お年寄りであることに特別な意味がなくなります。むかし「栄ちゃんと呼ばれたい」と言った総理大臣がいましたが、「介護されたい」と言っても言わないより増し程度の意味しかありません。黙っていてもその必要が出た時には介護して貰えたり、その必要が出た時には介護したいと申し出て貰える場合を除いたら公的扶助に頼るしかありません。頼りたい相手にその気があっても、体力が伴わなければその程度しか頼れないのです。程度の差こそあれ誰も公的介護と無縁でありませんから、その質を高めてより快適な老後を確保すべきでしょう。

 

 

 

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