画家・牧野邦夫と千穂さん

         

 私の牧野邦夫との出会いは、電車の中のポスターを何気なく見上げて、目に入った彼の自画像を眺めたときです。絵画の中に光をとり入れて、レンブラントを意識しているなと思い、気持ちは痛いほどよく解りますが、日本人の描く絵の中に西洋バロックを取り込むのはどうしても無理があるのではないかなど思いました。私の父も美校出の洋画家で、私は幼稚園に上がる前から油彩画の手解きをうけ、将来は父のような洋画家になろうと思う時期もありましたが、私が高校生になったときに「大学へ入るまでの間は」と父は私に絵筆を取ることを禁じました。

 絵を描くことを禁じられた間の私は、本来受験勉強に専念しなくてはならない時期でしたが、自分にとっての絵画とは何か、絵画を通して何を表現したいのか、などと考えておりました。そして大学へ入った時、百号以上の大きなキャンバスに大胆な筆遣いの父の画風とは正反対に、色紙大や葉書大ぐらいの小さなものに細い筆で微細な絵を描きたい自分に気づきました。迷わず日本画の先生に師事し、以来力量にあったと思える小品を細々と描き続けております。目にしたそのままを描きたい、より美しく描きたいという私の偽らざる気持ちが「花」ばかりを描かせるようになりました。

 丁度その頃「レンブラント展」を観てショックに似た感動を受け、光り輝くさまを描きたいと思い続けて今日にいたっております。「そっくりに描くくらいなら、写真の方がよい」という父に訣別し、「日本画に陰影は、あってはならない」といった恩師と訣別し、「描きたいものを描きたいように描く」私にとって画家・牧野邦夫との出会いは「自分が最も自分らしいと思う、自分が理想と憧れにする自分」に出会った気がして、胸がザワザワモヤモヤするほど明らかにジェラシィを感じさせられました。「牧野邦夫展」がオープンした翌月曜日の午前中に、混雑を避けるつもりでその時刻に行きました。

 ところが肩越しの鑑賞にびっくり、今までの常識から作品の数の多さにびっくり、観るものを圧倒するエネルギーにびっくり、会場を幾往復もして幾度も見返すうちに画家・牧野邦夫については「なぜ絵を描くようになったか」、「なぜ世俗的な成功を求めなかったか」が分ってしまった気がし、それ以上に作品の中で幾度も対面した「千穂さん」に強い興味を覚えました。全ての作品を脳裏に刻み込んでおきたくて「画集」を買い、目を皿のようにして、幾度も幾度も観て読みましたが、千穂さんについては128ページに一文字「妻」と最後に協力者名として「牧野千穂」とあっただけで、この扱いから手塚治虫の「ばるぼら」の美倉洋介とばるぼらの関係を思い出してしまいました。

 数日後、千穂さんが書いた「見る人間・牧野邦夫」の存在を知らされ、「牧野邦夫展」の終わる前日の土曜日のその日の終了時間すれすれに飛び込んでその本を買い求め山手線を一周する直前に読み終え、全てが理解できたように思いました。画家・牧野邦夫は一部の人々にはよく知られていたでしょうが、私を含めて世間一般の人たちには全くといっていいほど知られていなかったわけですから、世に出たのも千穂さんがいたからこそと思え、しみじみと、妻に「もし私が死んだら、このような本を書いて欲しい」と頼み、笑われて、なぐさめられてしまいました。

 画家・牧野邦夫は千穂さんとの出会いがあって初めて生きる喜びを確認し、苦悩と精進が報われたと感じたに違いありません。「誰でも一人の患者の治療者にはなれる」という、先人フロイドの言葉を思い浮かべました。 

 

 

 

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