「男らしい女」と「女らしい男」

         

 男らしくとか女らしくとかいう言い方は、改めていうまでもなく、男のひとは男らしく女のひとは女らしくという意味で日常の会話の中に使われております。従って、大人が子供に向かって「女の子らしくなったね」などといって褒めたり「男の子なんだからしっかりしてね」などと激励したりすることは、わりと普段の生活の中で耳にすることだろうと思います。男らしいとか女らしいとかいう言い方は「褒め言葉」だから、意識的でなくても良い関係をつくろうとか良い関係を維持したいと思っていると、ほんの少しでも女らしさとか男らしさを感じると思わず口にしてしまいます。このように、口にする方も軽く何気なくですから、それを聞く方も厭味で言われているのではないと分かれば軽い気持ちで聞き流します。

 そして時に密かに自覚していることだったりすると、満更でもない気分になり、思わず顔がほころんでしまったりするようです。しかし、「男であるならば男らしくあらねばならぬ」などと言われたり「何といっても女は女らしくなくっちゃネェ」などと言われ、非難とも皮肉ともとれる言い方を耳にしたりすると「アーァッ」と溜め息をつきたくなります。女らしい、男らしい、と言われた時には、多少気恥ずかしさを感じつつも悪い気はしないものですが、男らしく、女らしく、を求められるとたいがいの人は困惑するのではないでしょうか。“女らしいひと”が女らしく振る舞うことや“男らしいひと”が男らしい態度をとるのは自然で無理はありませんが、“男らしくないひと”が男らしくしなければならないことや“女らしくないひと”が女らしくしなければならないことは極めて困難なことなのです。

 不可能に近いようなことを求められることは、求められる者にとってこれほど辛いものはありません。出来ないことは出来ないとはっきり言えて居直ることが出来る人ならば耐えることが出来ますが、そのように出来ない人たちはただひたすら辛さに耐えなければならないことになってしまいます。このことは、女らしい女と男らしい男にとっては何でもないことでしょうから、私が此処でなにを言わんとしているのかそのことすら理解するのは難しいことのように思いますが、男らしくない男と女らしくない女にとっては、ものごころついた幼児のころから一生のあいだ苦しまなければなりません。

 私がつね日頃考えていることですが、「男らしい女」がいても「女らしい男」がいても良いのではないか、「男らしい女」にも「女らしい男」にも市民権が与えられても良いのではないかと思います。「男らしい男」と「女らしい女」のみが認知される社会ではなくて、「男らしい女」と「女らしい男」も認知される社会になれば、家事と育児に専念したいと考える男性にも、家事と育児に煩わされることなく仕事に専念したい女性にも、その願いが叶えられる自由が得られることとなるのではないでしょうか。これこそ、性差別の無い「男女平等の社会」といえるように思います。

 生まれた赤ん坊が女の子だったらピンクのベビー服を着せたがり、男の子だったらブルーを着せたがるのが、好ましくないといっているのではありません。よちよち歩きの男の子に自動車の玩具を与え、女の子にお人形を抱かせても良いのです。ベビー服をグレーとかベージュに統一したり、性別不明の動物のぬいぐるみしか与えないようにするのはやり過ぎです。しかし、もし女の子がブルー系の服を着たがったら3枚に1枚は着せてあげて欲しいし、男の子がお人形で遊びたがったら3回に1回は遊ばせてあげて欲しいのです。男の子は男らしく、女の子は女らしく育ってほしいと願う親の気持ちを変える必要はありませんが、そのようになっていってくれそうもない時に柔軟に対処できる頭と気持ちを持っていて欲しいと思います。 

 

 

 

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