日本再生は家庭の再生から

       

                  カウンセリングルーム 中嶋柏樹

 世紀末現象という言い方があります。主に100年前のヨーロッパで突発的に発生した特異な現象を表現したもののようですが、今世紀末のミレニアム年に入りますと欧米を中心にして世界中でその世紀末現象の生起を期待する前から、堰を切ったように次から次へと、今迄には絶対起こり得ないような事件が起こり続けています。雪印乳業の食中毒事件そして三菱自動車のリコール隠し事件など、有名企業の法人犯罪ともいえる重大事件が世間に大きなショックを与えています。この重大事件が私たち国民の関心を呼ぶのは、それらは氷山の一角にすぎず他の企業でも類似の問題が潜在しているのではないかという危惧を抱いているからでしょう。バブル崩壊を序章として、戦後半世紀に築き上げたわが国の体制がこの世紀末にほころび始めたようです。政治家の建設業界との癒着問題、大蔵官僚の接待漬け問題、第2のリクルート事件に発展しそうなKSDとものつくり大学の事件、警察官の職務怠慢、防衛庁収賄・機密漏洩事件、動然の事故隠し、旧長銀や日債銀の放慢融資による破綻、国立病院の手術ミスや治療ミスの多発などと、政官界の不祥事が続発しています。これまで救いとしては政官界は堕落していても民間のモラールはまだ大丈夫だと思われていました。

 しかし、住友金属鉱山系JCOの放射線汚染事故を筆頭に、雪印乳業や三菱自動車など民間までもが不祥事を露呈し始めました。青木建設、フジタ工業、間組、熊谷組など中堅ゼネコンの債権放棄要請、そごうデパートの放慢経営による倒産、さらに公的資金投入による景気回復対策に名を借りた公共工事のくり返し、ゼネコンの権益が優先していると言われている土木公共工事の乱発による国家債務の急増と、それに伴う不祥事の続発が、わが国の既成体制全体にガンが転移するかのように病巣が拡がっていく様子がTVや新聞で頻繁に報道されています。わが国の既成体制の腐敗を指して、「制度疲労」という言い方がされています。戦後半世間の間に確立された既得権体制のほころびがもたらす問題であることは確かです。しかしながら日本人が変わったのではありません。敗戦の焼跡から復興し、世界第2位のGDPを誇る経済大国に成長させた日本人の根性体質と、最近の不祥事を多発させている日本人の根本体質の根はひとつであると言えるでしょう。戦後の日本人の体質は置かれた時代環境によって、プラスに作用したり、マイナスに作用しているにすぎません。根本には村社会意識が厳然と存在すると言えます。村社会は相互監視社会です。

 挨拶をしないとにまられたら、村八分という掟で集団から疎外されてしまうのです。この恐怖心から逃れるため。組織内個々人は手を抜かず頑張って来ました。この頑張りはトヨタに象徴されるように、日本の製造業を世界トップレベルの高品質ブランドに仕立て上げたと言えます。トヨタの下請け企業はトヨタから疎外されたら生きるすべが無くなると恐れたのです。品質欠陥を起こしたらたちまち出入り禁止となり、そく倒産そして失業という恐怖のシナリオが結果的にプラスに作用して、世界トップレベルの高品質をもたらしたと言えるでしょう。組織の中で村八分に対する恐怖心が強いほど、ミスを絶対に起こさないように徹底した品質管理が行われます。こうして日本の自動車メーカーは米国市場において高品質というブランドを確立し、その神話はいまだに生きています。しかしこの恐怖心は副作用も強く、ときにはマイナスに作用することがあります。作家で元通産省官僚の堺屋太一さんが「官僚無謬主義」という表現をよく使いますが、お上にミスや間違いがあってはならないという考え方です。民間企業も肥大化して組織の風通しが悪くなりますと「減点主義」も蔓延って来ます。こうなりますと、絶対にミスがあってはならないという恐怖心は、「悪質なミス隠し」をもたらすことになってしまいます。

 村社会のもたらす一致団結による協力の結晶としての高品質と、組織ぐるみの隠蔽隠蔽行為は表裏一体のものです。日本はこうして、天国から地獄へ一直線となってしまいました。今次大戦末期に米国人は、カミカゼ特攻隊を非常に恐れたと言われています。戦前の相互監視の村社会において特効隊志願から逃げれば、その若者本人のみならず、父母兄弟までが後ろ指をさされるという恐怖心がありました。この恐怖心は米国人にとって、徹底理解できるものではありません。1980年代後半に日本が破竹の勢いで米国を追随しているときも、やはり米国人は日本人を大変恐れ、日本人と日本人研究を始めました。その結果から、日本の凄さはT.Q.C.Total Quality Controlの導入を成功したことにあると仮設をたてました。モトローラーやヒュ−レットパッカードそしてゼロックスなど日本に参入していた優良米国企業がこぞってT.Q.Cブームが起きたのです。1980年代T.Q.Cは和製英語であることが分かり、T.Q.M.Total Quailty Managementと呼び方を改めました。ところがその当時の米国人は、日本人についてどうしても理解できないことがありました。

 日本人社員はただの紙切れに過ぎない表彰状一枚のためになぜT.Q.Cのグループ活動で競って頑張るのだろうかと、それか米国人にとっては不思議でならないのです。村社会にT.Q.Cが導入されると全員参加になり、その主旨に従って努力しないと村八分が待っています。村八分にされないためには何としてもその表彰状が必要であったのです。村八分恐怖が功を奏して、日本のT.Q.Cは大成功したと言えます。一方、米国人は個人主義ですから、実のある報賞無くしてT.Q.Cに協力することはありえません。米国人の素朴な疑問は解消されないままでした。極端な言い方かも知れませんが、日本は村八分恐怖がプラスに作用して、世界第2位の経済大国に成長したと言えるでしょう。村八分社会は文明国の文化でも、先進国文化でもありません。発展途上国の文化でしょう。経済的に先進国となった日本において、若い人を中心に個人主義的人間が増え始めました。貧しかった時代には、村八分にされることは仕事を奪われることを意味したのです。村八分は死ねといわれるほど恐怖であったわけです。島国日本ではお互いツーカーであるから、いったん村八分にされると信用復権は至難ではあるといえます。

 しかし、1990年代以降の日本においては、村八分にされることがそれほどの恐怖心をもたらさなくなりました。つまり要は豊かになったのです。貧しさから抜け出して恐怖心が取れれば、品質管理は形だけ整えておけばよいという考えが支配し始めてくるわけです。品質を維持するということは大変神経のすり減る行為です。恐怖心が取れたら、またたく間に気が緩んでしまうのは自然でしょう。一方、米国のT.Q.Mは実のある報奨(インセンティブ)でQC活動を実行しているから、報奨が続く限り、QC活動は持続されるのです。恐怖心のコントロールか、インセンティブによる活性化かというTQMにおける考え方の相違が今日の日本における品質の差をもたらしているといえます。日本の和製英語TQCは誤訳ではなく、それなりの意味があったのです。コントロールという言葉はロシアの原子力潜水艦沈没事故における旧ソ連KGBの鎮静剤注射の恐怖(ロシア海軍幹部を非難した犠牲者の母親に鎮静剤注射をした)を彷彿とさせるほどです。恐怖心による統制はやはりいつか滅びます。日本でいま起きている不祥事は恐怖心による統制の崩壊過程といえるかもしれません。

 現代の日本は過去の清算をしているともいえます。ある意味では健全な方向に向かっていると期待したい。日本人も世界の人々もこれまで日本人の実力を過大に評価してきたきらいがあります日本において世界に誇れる部分とは、自動車メーカーや電機メーカーや鉄鋼メーカーなどがごく一部であって、その他は大部分は世界レベルから大きく劣っていました。今はその実態が単に暴露されているのに過ぎないのかもしれません。昔から公務員の非効率を指摘されていたし、政治家の国際性のなさもわかっていたのです。民間企業も、規制保護されてきた金融業やゼネコンの国際競争力は昔から弱かったのです。日本の実態が暴露される過程で品質大国日本の神話も音を立てて崩壊している真っ最中なのです。恐怖心による統制を清算し、インセンティブによる活性化への転換が日本再生の道です。ベンチャーの出現は統制からインセンティブによる活性化への転換時代の申し子です。これが暴露される日本の実態なのです。

 日本人に道徳心や倫理観が希薄な訳ではなく、かつて日本教などど言われたことがありましても宗教心が無い訳ではありません。しかしながら、日本の総理大臣が外遊先のヨーロッパで、トランジスタのセールスマンと揶揄されエコノミック・アニマルとまで酷評されたことがありました。敗戦の焼跡から無我夢中のサバイバルとはいえ、経済優先にブレーキが効かなくなってしまって来たことは否めないでしょう。さらには、この半世紀に生まれて成長し親になった「団塊の世代」という大勢の人たちが、その数の多さから良きにつけ悪しきにつけ注目されています。その世代の人たちは経済偏重主義が当然という環境に生まれ育って、円満とはいえない人格形成がなされてしまっているようです。歪んだ時代に歪んだ人格は目立つこともなかったのでしょうが、不幸なことに、その歪みがその団塊の世代の子どもたちに、蓄積され増幅された歪みが「問題行動」として噴出したのでしょう。

 団塊の世代である親たちは、どうやら、子どもたちの言動が了解不能のようです。幼児期から小学低学年の頃までは、だだをこねたらあやし飴玉をしゃぶらせたら乗り切れました。子ども騙しが効かない分はお小遣いを奮発することで、日頃手抜きを感じているお父さんでもなんとかなりました。ところが小学高学年になり、中学生になる頃には、わが子ながらという台詞がむなしくなって、口に出来なくなるほどになります。今時の若者はという言い方は、大昔から言われ続けています。しかしながら、今時の若者はなどとは口にする気になれない程かけ離れた感じがして、インベーダーであるとか異星人としか言い様がないと言われるようになって久しくなります。バブル経済が崩壊して社会が鎮静化するに連れて会社人間だった父親たちが、地域や家庭に戻り始めた頃になって少年の事件が頻発するようになりました。「黄昏のウィーン」で知られる世紀末現象は、19世紀から20世紀に移る時のヨーロッパにヒトラーやフロイドなど各界に名を遺す人物が出現したことを言います。そこからそこから世紀末には特異な現象が多発して、この先どうなってしまうかと心配していると、意外にも安定した新世紀が始まるということを称しています。

 宮崎勤事件から神戸の事件そして新潟の事件と続き、それに準ずるような事件が幾つか起こっています。想像を絶する事件だと社会は震撼し、国は拙速な少年法の改正を進めています。たしかに少年法も教育基本法も改正する必要はあると考えますが、世紀末現象の一つとも考えた方がよい特異な事件に振り回されたら、判断を誤るでしょう。団塊の世代である親の親は、敗戦後の焼跡からハングリー精神で走り抜いた人たちです。団塊の世代の親はこの親を見て育ちましたから、ハングリー精神は無くてもひたすら走り抜く生活が当たり前です。欲望に限りはありませんから、さらに豊かさを求めひたすら走り抜く人生に疑問を持つ暇はありません。「父親なき社会」から「家庭のない家族の時代」へと移り、「不登校」と「拒食や家庭内暴力」が前兆として多発し、了解の範囲を遥かに超えた「少年事件」がついに発散するようになりました。団塊の世代の親たちはわが子のことでも、困惑し手をこまねいているしかありません。団塊の世代の親たちは自分たちの親を見てそだち、気付いてみたら、自分たちも親のように生きて来ました。そのために、子どもが自分たちのようであってくれないと、どうしようもないのでしょう。バブル経済が破綻するまでは、減速することなど思いも寄らず走り続けて来たのです。

 そして、それが、”なりゆき”であったり、”弾み”であったものであるかのように語りますが、そこにはより良い生活を求めての努力があり。苦悩があったに違いありません。卒業して就職し、恋愛して結婚し、夫婦で家庭を築いてそこに子どもを得るまでは、説明をうけなくても了解できる範囲です。ところが、子どもが産まれることを熱望していた夫婦でも、産まれた子どもを育てることに熱心にはなれないようなのです。日本人の精神構造が評される時に「甘え文化」と「恥じの文化」が出て来ますが、日本人を理解するにたいへん都合の良い概念です。不可能とされる日本人をこの「甘え」と「恥じ」でぴたりと説明がついてしまいます。価値が多様化したことがありましても、学校を卒業したら就職して一人前の社会人になるつもりは大多数の若者の気持ちの中にあります。成長する過程でそう信じ込まれたと思いつつも、それがそのまま自分の考えになっていることを承知しています。同時進行する恋愛と結婚も、そうするものと成長する過程で信じ込まされたと思いつつ、体内から湧き出る不思議な感覚と感情によってそうせざるを得ないことも承知しています。そうしたことから、結婚して家庭を持ったら子どもが産まれて、家族が増えるということは承知しています。

 ところが子どもが意思表示をするようになると、どう対応したらよいか判らないことに気付きます。真剣に考えて取り組めば判らないことは無いのでしょうが、親としてどのような姿勢でいたらよいかが判らないと、得意な友だちの態度で接してしまうのです。忙しい生活の日々の中で手慣れた事柄は苦にはなりませんが、面倒臭さが先に立ってしまうのでしょう。ご存じのように日本人の子育ての特徴として、幼少期からしっかりと躾けることはありません。成長と共に社会性を身につけて、物事の善し悪しは自然と判るようになるだろうと考えています。「水に流す」という言葉が示すように、日本人の精神構造の中には「放って置けば思い通りになる」という考えが定着しています。ところが、汚染を川に流しても綺麗にならない現代は、子どもを放って置いてもマトモに育って貰うのは偶然に頼るしかないでしょう。小子化の今ではリスクが大き過ぎますが。かつて日本人は結婚しても夫婦にはならず、いきなり子どもの親になってしまうと言われていました。子どもが巣立って2人残されて不都合を感じて、初めて夫婦とはと遅ればせながら考えるのです。

 ところが最近は友だち同士で結婚し、結婚した後も友だち同士で、生まれた子どもが自分の意思で行動するようになる迄の間のみ一方的に親になります。そして子どもが自己主張をするようになると、責任ある親として接することはなく友だちとして接してしまうのです。友だちとは喧嘩別れをして縁を切れますが、我が子とはそのような訳には行かないことに気付いていません。日々の生活に追われていると、何処かで手を抜きたくなります。手を抜いてしまうのは、一番手抜きをしてはいけない子どもへの対応です。子どもに甘えて手抜きをし、甘えている負い目を補いたい気持ちが、不必要に金品を与えてしまい目に余る行いを叱れないのです。周囲や世間を気にして、手に負えない子どもの親として恥をかきたくないからと、さらに金品を与えご機嫌をとり好ましい行動にコントロールしようとします。ご存じのように、赤ん坊から幼児に至るまでの間は本能のままです。これから先に必要な「社会性」は必要なだけ獲得させることも教えてあげなければならないのです。

 そろそろお気付きかと思いますが、ペットの飼い主もこれと良く似ていて餌を食べさせることと可愛がることは良くやります。しかも煩わしくなると放置し、躾や教育には熱心で無いところまで良く似ています。人間の親もペットの飼い主も将来に向けての期待は十分にありますし、その為の躾や教育が必要なことは承知しているでしょう。どうやら、どんなに必要であっても、面倒なことや根気のいることは避けてしまうようなのです。ペットも子どもも素直に言うことを聞くうちは可愛くて言うことを聞かなくなったり、買ってをするようになったら持て余すのでしょう。ワンちゃんを可愛がるばかりで大きくしてしまうと、犬も群れ動物ですから家族の中で自分が一番の権力者と思い込んでしまいます。「アルファ−シンドローム・権勢症候群」と呼ばれ。家族のボスとして振る舞います。ただ可愛いからと飼ってしまい傷だらけになって後悔している飼い主のように、多くの親たちが困り果てたままで幾年もその状況を過ごしてしまいます。愛犬だったら訓練所があり訓練士さんから矯正指導が受けられます。

 かつて法務省が病院と刑務所の機能を合わせ持った「治療矯正施設」を作ろうとしましたが、欧米特にオランダとイギリスで効果が得られている事実を紹介しても頓挫するしかありませんでした。そのようなことがあり、多くの親たちが人間であるが故に、孤立無援のまま追い詰められる一方、子どもたちは紙袋を被った子猫のようにあがき騒いで暴れ廻っています。言い古された言い方の観がありますが、戦後50年は物の豊かさのみを追い求めて来たために大きな歪みが社会を蝕んでいます。その50年に団塊の世代が生まれて育ち、大人になって親になりました。団塊の世代の人たちは重篤な症状をもたない保菌者のようなもので、自分が病気である自覚も家族や周囲に病原菌をまき散らしている自覚も無いようです。そのために団塊の世代の人たちの子どもたちに重篤な症状を持った患者が出始めたのでしょう。エジプトのピラミッドや奈良の法隆寺に「いま時の若者は・・・・・・」と、嘆きの落書きがあったと真しやかに言い伝えられています。

 今も昔も親世代が子ども世代を理解できないと愚痴をこぼすのでしょうが、その程度の差が愚痴をこぼしていれば何とかなる状況では無いと感じます。団塊の世代のその原因は、単に数の問題であるという意見もありますが、数が減るまで放置して良いということはありません。教育基本法を改正しようとするなど、あらゆるところに原因を求め改正しようとする動きはあります。どのような努力でも可能なところから着手する必要は大切ですが、近視眼的過ぎるきらいを少なからず感じてしまいます。人を育てるには100年かかると言われていますが、それほどでも無いとしても50年かけたものは50年かかると思う必要があります。20年ぐらい前には「父なき社会」と言われ、ここ数年は「家庭の無い家族の時代」と言われています。バブル崩壊は「ノアの大洪水」だったのかも知れません。あのまま成長経済の天井知らずが続いていたら、お金漬けになって干物のようになってしまったでしょう。洞窟の奥に秘宝を発見した探検家が閉じ込められて、のちに財宝の山に寄り掛かるミイラとなって発見される小説のようです。あらゆる努力が必要ですが、根本原因であり最重要改善課題は、有機的に機能する「家族を復活」させることです。

 それは、さほど難しいことではありません。結婚して子どもが出来て家庭を持ったら、良き夫婦であり良き両親であるように心掛け、楽しい生活が営まれている家庭であると感じられるようにすれば良いのです。構成員である親も子どもも、皆がそう感じられていることが大切なのです。TVドラマ「大草原の小さな家」のインガルス一家をイメージして下されば、すぐに解ると思いますし、遠い昔の懐かしい記憶が呼び起こされそれと一致すると思います。空腹を抱えるように貧しい生活の中でしたら難しいことではありませんが物質的豊かさに囲まれた生活の中では、心の空白を物で補ってしまいがちだからです。家族の一人ひとりが互いに補いあって、日々の生活が楽しく将来に夢が持てるよう、互いが相手に思いあう必要があるのです。子どもの行動は模倣から始まります、幸せを与えてくれる両親が幸せにしているならば、親たちのようになろうと努力して、その努力を褒めて貰おうと更に努力します。そのような環境で育てば、両親のようになろうと思うに違いありません。そして、学校生活からの学びや地域での日々の生活から学ぶことに素直になれ、それが厳しく辛いことであっても、家庭で癒され勇気付けられるならば乗り越えることができます。

 子どもたちが学齢期に達すると、良い学校に入れたいと思います。学校を卒業して社会人となる時には、良い社会に入って欲しいと願うのが親心です。そのようなことから、良い学校があって欲しいということになります。そして社会資源や社会構造から、日本国そのもののあり方までが、快適な生活が得られ国際社会のお手本になるよう望むことになります。良いことは良く、良くなることを望まないことなどあり得ませんが、望んだからといってその望みが簡単に叶うとは誰もが思ってはいません。ところが、まさにコロンブスの卵のような発想の転換でいままで改善不可能と匙が投げられているようなものまでにも解決が望めるのです。教師の資質まで含めて問題山積みの公立学校についても、生徒が進学したい学校うぃ自由に選ぶことが可能になれば、それだけで解決が望めます。教育環境と教育の質が良好で無ければ、生徒数の現象に歯止めがかかりませんから閉校に追い込まれないために努力をするでしょう。現にこの動きは一部の地域に始まって、地域内の各学校関係者は、生徒が選んで入学して来てくれるよう魅力ある学校作りを始めています。

 企業については、いう迄もなく、国際競争力を持つ体質に生まれ変わるよう生存をかけて努力しています。その流れがJALとJRそしてNTTが見せ掛けだけのものであって、お役人仕事のずさんさを露呈し生き残るために、不可能に近い努力を強いられています。独占に安住していられる時代でないことを知らされているのです。日本国そのものについても、コロンブスの卵的発想の転換で、世界の模範となるような平和人道国家になれるのです。今迄に幾度か提唱されたことがあることですが、それは日本国を複数に分割して連邦にするのです。北海道と東北・関東と、中部・関西と中国・四国と、そして九州から沖縄までと5つの独立国とするのですが、国民は個々人に認められた自由の一つとして、自分の好みでどの国に住んでも良いとするのです。連邦政府に象徴的な役割以外は殆ど無く、5つの独立国からそれぞれ国連に代表を送るようにします。国民も企業もごこちの良い国を選べる訳ですから、大統領制が良いかは別にして、各国政府はまさに公僕として努力するでしょう。日本の平和憲法も米国に押し付けられたもので理想過ぎるからと改憲の動きがありますが、まさにこの平和憲法の基本精神が新生日本連邦の国是に相応しいものとなります。

 日本連邦に属する5つの独立政府の切磋琢磨で、それぞれの国民の生活が快適になり豊かになります。世界の資源国から提供された資材を高度な技術で付加価値の高い製品を作ることで、世界に貧困と飢餓を減らす努力を積極的にします。連邦に属する独立国が国連で主導権を取って、世界の貧困と飢餓を減らす活動を積極的に推進します。連邦が強大になると、それだけで潜在的な脅威となります。脅威と感じる国々は軍事力を増強します。ところが、平和憲法を掲げる人道大国であることを宣言し続けて、その実績を評価して貰えれば仮面を被った覇権主義ではないかという疑惑は霧散するでしょう。子育ては母親の仕事であり、夫は外で働いて家計を支えるのが仕事であるとの役割観は未だにあります。しかし一方に”子育て”を優先してまで、わが子を育てたいと主張する父親が出て来ています。「子育て権」で互いに譲れず、調停が流れて裁判で争う夫婦がいるほどです。子育ては面倒臭いかも知れませんが、やり甲斐のある楽しいものと思った方が良いようです。単身赴任で離れて暮らしたり、子育てを棄権したら、豊かな人生とは程遠くなってしまうからです。幸いなことにバブル時代が終焉し、飽くなき欲望の暴走がカス欠つとなりました。

 手軽に稼げる儲け話しが無くなると、仕事中毒の猛烈社員も自然に減少します。戦中戦後の食料不足時代には、お相撲さんもガリガリに痩せて、糖尿病など生活習慣病が無かったのも同じ理由です。かつてイギリスにもバブル崩壊に似たものがあり、その後の低迷に続いた状態を「英国病」と呼ばれていました。ところが英国病と称されていた状態は、社会資源などを再構築して社会を安定させる動きをしていたのです。わが国のバブル崩壊以降がイギリス型の軟着陸であって欲しいと望んでいましたが、どうなるものかと気を揉んでいたのが杞憂で、わが日本人も捨てたものではないと安心しました。エコノミック・アニマルと酷評された拝金主義者の末路はと悲劇的でしたが、見事な路線変更を見せ、かつての企業戦士は家庭と地域に戻り始めたのです。ことことから、「日本の再生」は「家庭を再生」させることから始まるとの認識さえあれば、すべて状況は整っていることはお解り戴けるものと思います。ネズミの嫁入りではネズミの花婿が良いと気付くまでにひと回りして来ましたが、「日本の再生」は迷わず「家庭を再生」させることから始めるようお勧めします。

         (なかしまはくじゅ/保健管理センター・カウンセラー) 

 

 

  

 

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