シルバー・シートは誰のもの

 

 皆さんどなたも電車に乗ったとき、シルバー・シートにでっくわすと複雑な心境になる経験は少なからずお有りのことと思います。その車両にほとんど乗客が見当たらないような時には、シートの色など気にすることなどなく、わざわざそこに座ったり或いはわざと避けたりすることはないと思いますが、ほとんど満席でそこに少々席が空いていたときなどは当然座ってよい人もそうでない人も多かれ少なかれためらいを感じるもののように思います。

 シルバー・シートはお年寄りと身体の不自由な方たちのためにと注意書きにも明記されておりますが、シルバーという名称から明らかにお年寄りのためのものであり、年齢が若くても身体に障害がある場合には利用してもよいと誰もが理解しているものと思います。そのようなことからかつて若い人が我がもの顔で座っているという不満がいろいろなところから聴かれ、新聞の投書欄などにも寄せられておりました。しかし近頃ではそこに設置された目的が定着したためか、さすがに大股を広げた若者が座っている姿はほとんど見かけなくなりました。

 ところがそれで問題は解決したかといいますと、そうは簡単には解決してくれず、高齢社会になってお年寄りの幅がひろがったために、年をとった年寄りから若い年寄りにたいしてかつてあったようなものと同じ不満が出てきました。オバタリアンは厚かましくて、大きな買い物袋を抱え込んで座ると二人分の幅をとるし、寝たふりをして知らん顔をしているといったようなことです。若い人たちに対して、若くない人たちは「生意気な」と感じるように、年寄りたちに対して、年寄りでない人たちは「偉そうに」と思います。奈良の法隆寺の天井裏に「いま頃の若者は」と嘆きの一文が落書きに残されていたとまことしやかに伝えられていることからも、いつの時代でも変わることなく言い続けられていることなのでしょう。

 若い人たちが「生意気」なのは、必死に背伸びして一人前に見られたい気持ちがそうさせていると理解することができますから「若気の至り」と観てあげることもできますし、ある程度の年齢になれば自ずから気付くことになるであろうからと、放っておいてあげられる気にもなりますが、年寄りの「尊大さ」は歳を重ねれば重ねるほど始末に負えなくなります。かつて「栄ちゃんと呼ばれたい」といった総理大臣がおりましたが、「愛されたい」とか「いたわられたい」とかは要求するものではありませんから、尊敬も「して欲しい」と求めるものではありません。年をとっただけで敬ってもらえると思うのは間違いです。「レィディス・ファースト」とか「敬老」はともに希少価値だった頃の話で、数がふえたら遺物です。これからは「シルバ・シート」と「年齢」は無関係のものと、お年寄りたち自らが思えるようになった方がよいようです。

 「シルバー・シート」に座っている人は、年齢に関係なくどこかに障害をもっている人と思ってあげられる社会になれば、外見では分からない「内臓障害」や「心身不調」などの場合にも安心して座れることになります。

 

 

 

  

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