男の友情と性差別
      

      

 むかし、ヴィヴァルディの四季というタイトルであったかと朧げに記憶する映画を観たことがあります。男の友情と性差別たしかフランス映画だったと思いますが、学生時代からの友情を大切にしたいと思っている4人の壮年男性が主人公で、その4組の夫婦が毎年バカンスを共に過ごし旧交を暖めることに幸せを感じたいと願っていても、夫婦そろっての参加ができなくなったり、離婚や再婚が絡んでくる人生の四季にヴィヴァルディの四季が背景から相乗して展開する作品です。作品としてはB級で、ヴィヴァルディが好きな日本でなければ劇場公開はとても無理なような出来映えでしたが、作品内容に興味の残るものがありました。「親友」、「友情」などと聞くと誰もが心なごむ思いがし、迷わずそれが「良いこと」であり、異論などあるはずはないと思います。

 しかもそれに「羨む」気持ちすら湧くのはよほど幼児期から仕込まれたせいか、「友情」はなににも優先し、よりよい人生を送る上で不可欠なものと思われてしまっているようです。友情を大切にし、それを深めようとするとことは勿論結構なことです。誰にも迷惑をかけずになら大いに結構なことと思います。そころが、それぞれ結婚すると「夫人同伴」でと当然のように声をかけます。それはあたかも「貴女を夫人として認知してあげたのですよ」とお為ごかしを仄めかすいいかたがされることも有ります。男たちの交際の場に結婚したからと招いてもらっても、喜ぶ女性ばかりでは無いことを知っていなければなりません。

 新婚旅行から戻ると、親兄弟、親戚などの処へ、お土産をもって「挨拶まわり」をします、そして次いでのように、夫の友人の家に連れていったり、友人たちの集まりに連れていこうとします。互いに「見せろ」とか「連れてこい」とか気軽に言いますが、連れていけないと「妻の尻に敷かれてる」と思われてしまい、「軽く見られる」ことを恐れムキになります。それに対して「浮世の義理」で一度ぐらいならと応じると、大がいの場合はエスカレートします。仮に妻たちの集いに招かれることがあっても参加する気になれない夫たちが、自分たちの集いには「夫婦で」と考え、子どもができたら家族ぐるみの親しい関係を深めていきたいと、なんの疑いももたずに思います。

 偶然にでも相性がよければ別ですが、男の身勝手に付き合わされる「女性の迷惑」に気付かなければなりません。男も女もお互いに、相手の方の付き合いに「混じりたければ混じる」というのがフェアのように思います。 

 

 

 

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