キリスト者ジョセフ三浦の南方関与3

 

 

 当時の日本は辛勝でもロシアを打ち負かし、世界の一等国として国際連盟の主要メンバーとなりました。西欧の列強国と背伸びしても肩を並べたい"脱亜入欧"の意気込みは、欧米諸国に向かって目いっぱいに虚勢を張りました。一方アジアの国々に対しては優越感をもって差別視を強めました。日本人はアジアにあっても一等国民であるが、日本人以外のアジアの人々は三等国民かそれ以下であると蔑視しました。これは欧米人に対する劣等感の裏返しだったわけですが、他のアジア人と同じに見られたら恥ずかしいという気持ちだったろうと思います。日本の指導の下に、満州、蒙古、朝鮮などの五族協和と東アジアの共栄を建国の理念とした「満州国」に於ても、日本人は指導民族として特権階級に君臨しました。豊かな生活ができるよう面倒をみてやるのだから、少々威張っても良いだろうという独善なのでしょう。

 このような感覚を持っていて当り前だった当時の日本人の一人である三浦襄が人種的な偏見や差別を持っていないのは、儒教観とキリスト教が混和した道徳感と素朴な恩返しの気持ちが偏見と差別観を減弱させ打ち消したのでしょう。経営する事業の雇用にも待遇にも平等を貫いた姿勢は日本人を超えたキリスト者そのものだったのでしょう。朝鮮半島で韓国人孤児たちから母と慕われた田内千鶴子もキリスト者だったことからも、かつても今も残念ながら高慢不遜と悪評の高い日本人の中で、日本人らしからぬと好評だった日本人はキリスト者のようです。

  戦争が始まったことで日系人は国外退去させられましたが、それを知らされていなかった琉球人漁夫たちは日系人としてオーストラリアの収容所へ抑留されました。残された妻子たちは働き手を失い路頭に迷いました。進駐した日本軍は大規模な収容所を作りオランダ人ら敵性国民を収容し朝鮮人と台湾人の軍属に管理させましたが、戦乱で生じた難民や孤児への対策はまったく手を着けませんでした。進駐軍の軍属としてバリに戻った三浦襄はまっさき孤児院作りに着手し、琉球人漁夫の妻たちを寮母として雇い入れ自分たちの子どもと孤児たちの面倒を見させました。孤児院の運営費用は私費で賄い、のちに軍の民生部から資金援助の申し出があっても、自主性が損なわれる恐れからその申し出を断わったようです。

 日本軍将兵が進駐していることで、毎日牛と豚が数十頭づつ食用に供されていました。そのうちにバリ島内全ての農耕用水牛まで食べ尽くしてしまう恐れが予想されたので、そのような事態が起こらないようにと食肉缶詰の備蓄が計画されました。軍からの要請ということにして事業を進め易くして、台湾を主とした東南アジア各地から牛と豚を輸入して缶詰に加工しました。皮革製品を開発し獣毛がブラシとなり骨で日用品の柄を作るなどして、捨てる部分を出さず完全利用して家内工業を育成しました。この事業は「三浦商会」という名称で自身は社長に就任しましたが、軍との渉外役に徹して運営の全てをバリ人に任せました。前出のブジャ氏と共に軍の民政部の特別顧問に就く前から、民政官の役割を果たし民政の安定に尽くしました。軍の民政官には望めない事柄にまできめ細かく対応し民衆の福祉の充実に尽力したので、バリの老若男女全てから「パパ・バリ」という愛称で呼ばれていました。"バリのお父さん"という意味合いよりも、ローマ法皇が「パパ」と呼ばれているような意味合いで"聖者"のように敬愛されました。

 バリ島に日本軍が進駐して、まず海軍が軍政を敷き次いで民政に移行するという経緯がありました。南方派遣艦隊の指揮統制下にありましたから、管轄区域の違いから陸軍部隊が駐屯することは殆どありませんでした。しかし、デンパサール市街中心部に中隊規模の分屯地がありました。中隊でありながら隊長は大尉であったことは無く、老齢の特幹准尉か大学を繰り上げ卒業して任官した若い少尉でした。兵員も百に満たない数で二個小隊の数も満たしていませんでした。装備も小銃程度の火器しか所持しておらず、陸軍の面目のためだけに配置されていたようです。

 戦後のインドネシア独立運動時と比べたら、開戦から終戦までの日本軍が進駐していた間に殆ど戦闘は有りませんでした。オーストラリア軍の偵察機や爆撃機が侵入して来た際に、海軍機の迎撃する姿を見かけたり高射砲の轟音しか耳にしなかったのです。このような情況下に置かれていた陸軍部隊は、市内の巡察以外にすることは無く、いかに暇をつぶすかに腐心するしかなかったようです。

 バリ島民の生活はそれなりに豊かで信仰心は強く、島内に乞食と売春婦はいませんでした。にもかかわらず慰安婦を要求することがあり、バリ舞踊の踊り子たちをそれに代えようとしました。それに対してバリの宗教と文化を説明して、踊り子は神に仕える巫女のようなものであり仏に仕える尼僧のようなものであると納得させました。そして、是非と言うなら還俗させなければならないし、それには日数がかかるからと諦めさせました。不幸にして将校宿舎の下働きとして雇い入れると騙され、被害にあった女性を孤児院の寮母として"居場所"を与えました。

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