パパバリ・三浦襄と南方楽土の夢

 第二次世界大戦時に日本軍占領下のバリ島に生きた日本人:三浦襄は
 バリの人たちのために生き、インドネシアの独立のために死んだ。

 

 戸川幸夫著「戦場の紙碑」などに紹介された三浦襄

飛翔の神ガルーダに乗っていやしの島へ

バリ・インペリアル・ビラの可愛いヤモリ

"トワン・ブッサル・ミウラ" 三浦大旦那様を訪ねて

なぜ"三浦襄"なのか、「三浦襄」を推理する

キリスト者ジョセフ三浦の南方関与

三浦襄墓碑  「長編小説パパバリ」

 インドネシア人の知人イ・プトゥ・ムリアルタさんはスカルノ時代に国費留学生として来日して以来日本に住んで、両国の橋渡し役のような仕事をしています。シンガポールに用事ができたので、ついでにバリ島に寄って来ようと思っていると言うと、苦笑して、ついでに行くところではないと言います。4年前にバリ・インペリアル・ホテルが出来た時に、そこの準備室に出向していた知人から、ビラが売りだから是非泊まってくれと言われたまま4年も経ってしまっているのでと慌てて弁解しました。それでも互いの主張に隔たりがあるようで、このところ雑誌などで特集されているヒーリング( healing 癒し )には必ずといってよいほどバリ島が舞台となって紹介されていると得意そうに言います。

 かつてチャーリー・チャップリンがバリを訪れた時に、"地上の楽園、この世の天国"と激賞したことで有名なのは知っていました。ムリアルタさんは、自然が違う、空気が違う、時の流れが違うとおっしゃり、かつては日本にもあって今は失ってしまったものがバリには全てあると言います。国費留学生になって日本へ行こうと考えたのは、同じ農業国であって同じように水田で稲作をしているようなのに、なぜ反当たりの収穫量に大きな違いがあるのかが知りたかったのだそうです。寒くて小さな国で、なぜ収穫の多い稲作が出来るのか不思議に思い、農学部で土壌工学を専攻したのだそうです。東京オリンピックの前の地方都市はインドネシアとよく似ていたそうで、外国に暮している感じは少なかったと言います。 夫人とは学生結婚だったのだそうですが、クラブの後輩と恋愛して結婚を考えたときに、日本人で無いことを数えきれないほど思い知らされたと言いますが、実習で近郊の農家へ援農に行った時に親切にしてくれたお爺ちゃんやお婆ちゃんは故郷の祖父母を思い出させてくれたそうです。

 炎天下で田の草取りをしている様子は、近くに 畔草を食む水牛がいたらインドネシアそのものだと笑います。バリ島を紹介する旅行社と航空会社のパンフレットと数冊のガイドブックを持参して、バリの自然と文化を正確に紹介してくれているものを揃えたといいます。そして一冊のガイドブックを手渡してくれて、太平洋戦争時のインドネシアと日本に触れているのはこの一冊だけだと言います。オランダ軍支配から日本軍進駐そして独立までの歴史の流れと三浦襄についての記述がありました。インドネシアの人たちのために生き、インドネシアの独立のために死んだ三浦襄については、まったく初めて知らされ驚きであり喜びでした。そして、縁の糸か霊妙な御手に導かれるような思いがしました。

 

 

 
 
 
 

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