戸川幸夫著「戦場の紙碑」などに紹介された三浦襄

 

  三浦襄は明治20年(1888年)宮城県仙台で生まれ、二十代でセレベス島マカッサル(現スラウェシ島ウジュンバンダン)に渡り、輸入雑貨商を営んだ。その後にバリ島に移り住み、ジャワやセレベスまで手広く販路を拡張して貿易商社と自転車修理工場を営みデンパサールで暮らした。日本人社員とバリ人社員に差別が無かったので、バリ人はトワン・ブサル・ミウラ(三浦大旦那様)と呼び信頼と尊敬を寄せていた。

 日本軍のバリ島への進駐は、太平洋戦争が勃発した2か月後の1942年2月9日の未明、かつてオランダ軍が上陸を敢行したと同じサヌール海岸に海軍陸戦隊(第二南方派遣艦隊第二十三根拠地隊)の上陸から始まった。海軍落下傘部隊がクタ飛行場(現バリ国際空港)を降下急襲して支配下に置き、陸戦・降下の二隊は南デンパサールで合流し、デンパサール市街地へ侵入した。 

 開戦直前にオランダ軍は、蘭領東印度支那(現インドネシア)に在住する日本人らを敵性国民として本国へ強制送還したので、三浦襄も引き上げ船で妻子が暮す内地へ戻っていた。しかし、"空の神兵"として知られた堀内大佐の指揮する落下傘部隊が北セレベス島メナドに進駐する際に、バリ島攻略部隊の道案内件通訳として徴用され軍属となった。そして、軍政顧問となって再びバリの地を踏んだ。 

 同42年5月に、バリ島を含む小スンダ列島(インドネシア群島の中央南部)が海軍の軍政担当地域に決まり、堀内大佐の部隊がメナドから転進して軍政施行に着手した。バリ島全域の治安は回復し、島民らは落ち着きを取り戻して生業に就けるようになった。速やかな軍政施行の成因は、日本の一民間人に信頼をかけ住民統治の責務を委ねたからだと堀内大佐の軍陣日誌に記されている。

 軍の要請により缶詰工場を新設し、三浦商会の名でその代表責任者を任されたが、渉外業務以外の運営や経理は一切バリ人に委ねられた。軍への訴えをもってやってくるバリ人が氏の自宅に溢れ、親身の相談と軍への調整をして実質的な民政官の役割を果たし、特殊状況下に於いてもバリ人の信頼と尊敬は変らなかった。 バリ島全域が安定し軍政から民政に移行したが、それに伴い日本人が増え商社員から一獲千金を夢見る"南方浪人"までが群居横行するようになった。そのためにこの2年間は一騎当千の激務をこなし、ついに健康を害して内地へ療養に行っていた。そして、在日の有志とインドネシアの独立の策を練った。

 1944年12月に帰島したが、初代大統領となったスカルノ氏らによる精力的な独立運動が展開していて、三浦襄は小スンダ建国同志会の事務総長に就き、さらに激務の日々を過ごした。 こうしてインドネシア全土が独立に向けて意気揚々としていた1945年8月15日に、日本敗戦の日がついに来たと知らされた。しかし三浦襄は、この地とこの地の人々を愛するが故に、あくまでもインドネシアの独立を支持する。全日本人に代わって、インドネシアの独立を見届ける決意であることを島内の村々を百数十回も精力的に説いて廻り理解を求めた。そして最後に、デンパサールの映画館に600余人の住民を集めて、「自分は自決して骨をバリに埋め、インドネシア独立の人柱となって独立の達成を見守るつもりである。」と、思いを語った。 そして、いよいよ占領軍がバリに進駐して日本人全員が捕虜になるとの情報が伝わると、氏は一夕デンパサールの王侯やバリの高官、それに日ごろ懇意にしていたバリ人と日本人たちを招いて別離の宴を開いた。招かれた人たちは、いずれ日本に送還されるお別れで、また何時の日にか会えると思っていた。

 そして翌日の9月7日、日本によってインドネシアの独立が許容されるはずだった日の明け方に、島の人たちに日本軍が占領した3年間を詫びる遺書を残し、拳銃で自決した。「この戦争でわが祖国日本の勝利を念ずるためとはいえ、愛するバリ島の皆様に心ならずとも真実を歪めて伝え、日本の国策を押しつけ、無理な協力をさせたことにお詫びする」としたためていた。そして、捕虜となる日本人が無事故国へ帰還するまでの支援を依頼していた。日本人が無抵抗で屈従したのは天皇の諭によるものだから、彼等の尊厳を尊重して欲しいとも懇願した。

 三浦襄の葬儀には1万人余の島民が集まり、盛大にとり行われたといわれている。進駐したオーストラリア・オランダ軍はバリ全島の人たちから慕われている聖者の葬儀を認めない訳には行かず、氏が熱心なキリスト教徒で、平和主義者であったこと、反オランダ的人物でなかったことから、請願そのままが許可されとという。敵性民の葬儀が認められたのは、異例中の異例だった。 日本が侵略した他の国々に比べ、バリの人たちが日本人により友好的なのは氏が生涯をかけた博愛と築いた信頼のためであろう。

 この戦争を機会に植民地支配をはね除けて、アジアの国々は独立を果たした。日本が意図した「八紘一宇」と「大東亜共栄」の構想は、西欧列強支配の肩代りでしか無かったが、この三浦襄のように同じアジアの友として真の幸せを願い、独立を支援した数多くの日本人がアジアの各地で汗と血を流したことを銘記したい。どうか永久の友情のために、語り継いで欲しい。そして日本人がアジアの一員であることを、忘れないためにも語り継いで行きたい。

 

 [ 参考文献 ]  

 「独立と革命」 元小スンダ民政部長官 越野菊雄 著

 「月刊インドネシア」日本インドネシア協会発行 昭和33年5月号

 「日本キリスト者三浦襄の南方関与」東南アジア研究 第16巻の1号 京都大学・

  東南アジア研究所センター出版(1978年)

 「戦場への紙碑」 戸川幸夫著 オール出版(1984年)

  バリ島シリーズ9号(思い出すことなど)第3章 元広島大教授藤岡保夫 著

  個人旅行15バリ島 昭文社(1997年)

 
 

 

 

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