キリスト者ジョセフ三浦の南方関与

 

         

 三浦襄がセレベス島マカッサル(現スラウェシ島ウジュンバンダン)に渡り輸入雑貨商を営んだのは、バリ島のラジャ(王侯)が島民と近隣印度支那の人々の生活向上のためにオランダ総督府に依頼してあった為だろうと考えられます。当時のインドネシアはオランダの支配下にあり、バリ島は8つの自治領に分かれそれぞれ藩候(王候)が統治していました。のちに三浦襄が建国同志会の事務総長に就いた時に会長に就いたプレレン自治領のラジャ・パンディ・チスナ氏の父君がそのラジャだったようです。

 三浦襄の経営能力がその事業の適任者として買われたのでしょうが、三浦襄が日本人であることから、日本製品を輸入するのに適任ということもあったでしょう。オランダを含めた欧米先進国の工業製品は品質が良くても値段が高すぎることから、品質や耐久性に問題があっても値段が安い方が実情に適しているのでしょう。単純な構造で特殊な技術を持たなくても、修理が可能である方が良かったのでしょう。自動車が人員や物資の大量輸送に向いていても、自転車や人力車の方が人々の生活に役立ったのでしょう。襄がバリ島に移って貿易商社を設立した際にも、自転車修理工場を併設していることから当時の情況が分かります。  

 青雲の志を海外に求めて船に乗り、親身になって面倒をみてくれたオランダ人船主夫妻と出会いました。そして、そのオランダ人船主夫妻の親切はキリスト教精神によるものであると知り、新鮮な感慨と共にキリスト教そのものに強い興味を持ったのでしょう。船主の家族と一緒に教会に通ったのも義理立てばかりではなかったと思います。そして商取引に於てもキリスト教徒である方が、異教徒のままでいるよりも比較にならないほど都合が良いことも経験で知ったことでしょう。いづれにしても、あらゆる意味からキリスト教の素晴しさを知り、日本人の多神・汎神教的な感覚から、排他的な一神教であるキリスト教に矛盾を感じず受け入れることが出来たのでしょう。

 海外に雄飛してその地に根を下ろした日本人は、おおむねその地の宗教を受け入れたようです。はっきりと改宗を意識した者と何となく改宗したような気になっていた者がいたようですが、表面的に改宗して地域の宗教行事に参加しても、密かに先祖の位牌と仏壇を守り習慣となっている仏教行事を守っていた者も少なくなかったようです。その地が国教以外の宗教を禁じているなどの場合には、葬儀を二重に行って矛盾を避けつじつまを合わるようなこともあったようです。

 歴史的に儒教の影響を受けて道徳心を当然のものとして身につけていた当時の日本人には、神が父であり人々は人種や国籍が違っていても兄弟姉妹であるという教えは理解し易かったでしょう。そして、父なる神の下ではみな平等であり互いに愛し合いなさいという教えは受け入れ易かったでしょう。偶々出会った外国人から親身になって面倒をみてもらい、キリスト教を知らなくても恩義は感じたでしょう。そして恩人に対して"恩返し"をしようと思ったでしょう。

 キリスト教と出会い、全ては父なる神の意思であることを教えられました。オランダ人の船に乗ったのも、船主夫妻から受けた親身な厚意にも神の意思があったことを知らされました。自らの善意で日本人の青年を家族の一員にした船主夫妻であったでしょうが、その気持ちの中には、そうすることが神の意志に沿うことでもあると承知していたと知ったのです。こうしたキリスト教の博愛精神に基づいた考え方に感謝して、バリ島のラジャが島民の生活を豊かにしたいと望んだ、日本との貿易事業を成功させることが恩返しであり神からの負託に応えることになると確信したのでしょう。

 そしてなによりも、奴隷に売られてエジプトへ行ったヨセフが辛酸努力して、信任され国王を補佐する宰相にまで登り詰めたという聖書物語に自身を重ねて身近なものに感じたのでしょう。ジョウと呼ばれジョセフと名乗ることを勧められて、漢字の「襄」を当てて日本名を「三浦襄」としたのですから、キリスト者として南方の地に使わされた聖ヨセフであると心密かに思ったのではないでしょうか。そして、ここで三浦自身の人生が決まったのでしょう。捜し求めていた青い鳥が南の島には生息しているようでもあるし、自分自身に同一視できるモデルとして聖ヨセフを紹介してもらえたということなのでしょう。

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