キリスト者ジョセフ三浦の南方関与2

 

         

 ジョン万次郎こと中浜万次郎が自己流ながら英和辞典を編みアメリカと西欧を紹介しましたが、その基盤にあるキリスト教を日本へ持ち込もうとする気持ちは無かったようです。もう一人のジョウ新島襄はボストンの大学で理学士となりましたが、のちに神学校へ進学したようです。国禁を犯した罪を赦され岩倉遣欧使節団に随行したのですから、帰国したら新政府の高官となることが当然視されていました。しかし、新しい日本の百年の計は人材の育成にあると考え、中央からの要請を辞して同志社大学の前身である英学校を設立しました。アメリカの大学をそのまま持ち込もうと意図したようで、教育にキリスト教が不可欠なものと考えていたようです。

 ところが三浦襄は、キリスト教と出会ったことで神の愛とその偉大さを知りましたが、教会に集うことも伝道や宣教をすることは考えなかったようです。船主夫妻の親切と神の意図に恩義を感じ、自分が必要とされる処でそこの人たちの為に尽くすのが船主夫妻と神への恩返しと考えたのでしょう。キリスト教が世界各地で土着の宗教と融合して定着したように、三浦襄と融合したキリスト教が発生したのでしょう。そして、これが矢内原忠雄の無教会派と酷似しているのが奇遇では無いと思えます。三浦襄より5才年下の矢内原忠雄は戦後に東大総長となった経済学者で国際経済と植民政策が専門でした。昭和12年に戦争批判で東大教授を辞職しましたが、バリを本拠として南方地域で盛隆を極めた三浦襄の事業が母国日本の覇権激化の影響を受け始めたころに一致しています。矢内原忠雄の植民政策論とキリスト教無教会派は、どちらも三浦襄から強い影響を受けているということは間違いない事実のように思います。 

 セレベス島マカッサル(現スラウェシ島ウジュンバンダン)で輸入雑貨商を営み、ジャワやセレベスまで販路を拡げて業績を上げてからバリ島デンパサールに貿易商社と自転車修理工場を設立したのは、ラジャから経営顧問として参画するよう要請を受けたバリ人青年ブジャ氏の勧告に従ったもののようです。ブジャ氏はオランダの大学へ留学して法学士となり帰国して司法官吏となりましたが、英、独、蘭、華、日の5か国語が堪能なバリ知識人の第一人者です。幼少の頃から優秀な子どもとして知られていて、ラジャから特別に目をかけられて成長しました。大学を卒業し法学士になれたのも、すべてラジャの配慮によるものだったようです。オランダ総督も有能で忠実なバリ人を間に置いた間接統治が良いと承知していたので、優秀な人材を発掘して要職に就けようとするラジャに協力的でした。ところがオランダがインドネシアを植民地化するのに60年の歳月をかけ、完全統治してから30余年が経っていましたので、いつの間にかインドネシアの人たちの間に「北方から同じ黄色人がやって来て、白人を追い払って解放してくれる」という伝承が出来ていたのです。前述の山田長政の浪士隊と同様の日本人が同時期にこの地域にまで来ていたので、北方からやって来た同じ黄色人が自由と独立のために戦う技術を指導し戦いを援助してくれるという願望が、誰となくいつの日か実現すると思ってしまったのでしょう。

 オランダ人である総督と船主夫妻が紹介した人物が北方の黄色人である日本人だったのですから、驚きもしたでしょうし事態をどう受け入れて良いのかと迷いもあったろうと思います。いきなり首都デンパサールで事業展開をせずに、初めセレベス島マカッサルで始めたのも無縁でなかったのでは無いだろうと思います。かつて山田長政たちのような浪士隊がやって来た以降は琉球人の漁民がやって来るようなことしか無かったインドネシアの人たちにとって、生まれて初めての日本人である三浦襄が自分たちにどのようなことをしようとしているのかを俄に理解することは出来なかったでしょう。特にオランダ人である総督と船主夫妻の善意をどう受け入れたら良いか迷ったではないかと思います。三浦襄の仕事ぶりと言動に接していたラジャやブジャ氏のような知識人たちは、人種の違いからの先入観よりもキリスト教徒であるということで理解しやすかったのでしょう。

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