なぜ"三浦襄"なのか、「三浦襄」を推理する

 

 

 三浦襄の"襄"という名前の珍しさから、 同志社英学校を創設した新島襄を思い浮かべます。新島襄の襄は本名ではありません。本名は七五三太(しめた)といい、アメリカへ渡る船の中でジョウ Joe と呼ばれていました。ボストンで大学と神学校を卒業して日本に帰る時に、親代わりとなって物心共に援助してくれた船主のハーディ夫妻にジョセフJoseph と名乗るよう勧められました。新生日本の将来は強兵富国しかないとの信念で脱藩・密出国してアメリカに渡りましたが、清教徒的キリスト教精神に触発されて、新生日本百年の計は教育にあると考えるに至りました。自ら牧師となり、日本に戻ってキリスト教精神の学校を創ろうと資金集めに奔走した間は、ジョセフ・H・ニイジマ Joseph H Neesimaと名乗り、署名していました。ミドルネーム H は恩人ハーディ夫妻の頭文字を貰ったのでしょう。そして、日本に戻ってからは、新島襄という文字を当てたのです。

 三浦襄の"襄"もやはり本名でないように思います。三浦襄がどこの時点でキリスト教と出会ったのかが判りませんが、蘭領印度支那(現・インドネシア)に渡ってからのある時点でキリスト教と出会い、そして日本に一時帰国した時に「新島襄」という名前に出会ったのだろうと想像できます。三浦襄が2才になった時に新島襄は没していて、三浦襄は二十才過ぎてからキリスト教と出会ったのでしょうから、"襄"と名乗ったのは新島襄とよく似た境遇と思いそこに神の意思を感じたからでしょう。

 ジョウ Joe はヨセフまたはジョセフ Joseph の愛称で、イエス・キリストの父もヨセフですが、ここではイスラエル民族の始祖となったヨセフのことです。旧約聖書物語に出て来る人物で、若い時に騙されて奴隷に売られてしまいましたが、売られた先のエジプトで努力して国王を補佐する宰相にまで出世しました。のちにヨセフの子孫たちをエジプトから脱出させて"約束の地"まで導いたというエピソードは、「モーゼの十戒」や「出エジプト記」などで良く知られています。新島七五三太をジョウと呼んだワイルド・ローバー号のテイラー船長もヨセフと名付けてくれたハーディ夫妻も、そこに似た境遇を重ね合わせたからだろうと思います。

 三浦襄が宮城県の仙台に生まれ育ち、20才代で蘭領印度支那に移り住んだのは、世相と無縁で無かったように思います。辛うじて勝った日露戦争の莫大な戦費負担が国民の生活を圧迫し、さらに東北地方は度重なる冷害の追い打ちがかかり、農家の次男三男でなくても新天地へ雄飛したくなる時代だったのでしょう。しかし海外雄飛にはまとまった資金が必要ですから、外国航路の貨物船かなにかの下働きとなって乗り組んだのでしょう。

 想像ついでに、荒唐無稽ならずも針小棒大な想像を廻らしますと、三浦襄の物語が見えて来ます。田舎からぽっと出の実直風な若者が、額に汗してかげひなた無く働く姿が見えます。当時の船乗りの最下層はほとんど前科者とやくざ者の集まりだったでしょうから、真面目で勤労意欲のある若者は船長や上級船員の目にすぐ止まります。三浦"七五三太"は船長のハウス・ボーイに取り立てられたのでしょう。信用出来ない者には任せられない仕事ですから、得難い若者として気に入れられ可愛がられたでしょう。

 欧米・キリスト教圏からアジアに来ている商人や船員は、教会から派遣された伝道師でなくても、布教の役割を担っていました。ご存じのようにキリスト教は一神教で、他の神と宗教を認めようとはしませんでしたから、辺境に住む邪教徒を改宗させて文明は真の幸せを享受させたいと信じているのです。同じキリスト教でもカソリックは、誰彼なく信者として教会という集団で支え合って安らぎを得ようとしますが、この頃のプロテスタントは特に個々人と神との契約を重視して、父なる神が望む清貧と博愛そして勤労を子の務めとして励むことで安らぎを得ようとします。またプロテスタントは真面目で勤勉で上昇欲求を持つ異教徒を改宗させて、神の子の仲間に迎え入れることも務めであると思い込んでいました。三浦"七五三太"のような若者と出会った欧米人は、その青雲の志を支援して養子にしても面倒見ようとします。

 いらぬ"お節介"を親切と信じて疑わない筆頭がアメリカ人だと言われていて、南太平洋の島々の女性たちにブラジャーをつけさせたのもアメリカ人のいらぬお節介だと言われています。捕鯨船に乗ったアメリカ人は鯨を追いながら島々を訪れ、ゾウガメやあほうどりなどを絶滅の危機にまで追い込んだ所業もありましたが、信ずる善意から文明の恩恵を与え教育の機会を与えました。アメリカと出会い、アメリカに学び、母国の発展に寄与する人材に成長した人々が数多くあったことは周知と思います。

 こうした時流の中で新島襄と同じようにアメリカ人の船長と出会い、アメリカ人の船主と出会うのが順当かと思いますが、三浦"七五三太"がオランダ人の船長と出会いオランダ人の船主であったと考えると、後の三浦襄の行動に合点が行きます。当時のオランダと日本そして東南アジアの国々は、すでに深い関わりを持っていました。ヨーロッパ列強による東南アジアの植民地化はポルトガルの香料貿易から始まり、連合東インド会社を設立したオランダがそれに変わりました。のちに英蘭協定でマラッカ海峡から東をイギリスの東インド会社に割譲し、西をオランダが支配しました。

 オランダは東南アジアの広大な地域を植民地として支配しましたが、国土が狭く人口が少ないオランダは、オランダ人のみで要員を確保することは出来ませんでした。労働力はそこの地域に住む人たちで足りない部分は中国人とインド人で賄えましたが、紛争に対処するための軍隊は本国に要請しても正規軍の派遣は員数不足で望めません。本国から派遣された寄せ集めの外人部隊は寄港地ごとに脱走し、たどり着いても信頼に足るものではなかったようです。

 信頼できる傭兵の確保に奔走したオランダは、シャム王国で国王に信頼され親衛隊長にまで登り詰めた山田長政で知られる日本人の浪士隊に目を付けました。関ヶ原の合戦の後豊臣の残党浪人と鉄砲や刀剣が巷に溢れていて、再就職と活躍の場を求めた不穏の動きに苦慮していた徳川幕府は、オランダからの申し出に渡りに舟とばかりに応じて浪士隊と武器をセットにして輸出したのです。東南アジアの各地に数多く存在した王国は各々軍隊を保有していましたが、小規模の地域紛争程度の戦闘経験しか無く大規模で組織的な戦闘を経験する機会はありませんでした。ところが天下を分けた大合戦を経験したばかりの日本人傭兵部隊は、"攻撃は最大の防御なり"など豊富な実戦体験から身に付いたど迫力は群を抜いていました。鬼畜のような形相で大声を上げて死を恐れず切り込む戦法は、戦う前に相手の戦意は喪失したようです。しかも武勇に優れた者ばかりではなく、文武両道に勝り行政管理能力に長じた者もいたことから、オランダが直接に支配するよりは植民地管理を日本人に任せて措くほうが適切と考える向きもあったようです。

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