飛翔の神ガルーダに乗っていやしの島へ

 

 

 ガルーダ・インドネシア航空873便の丸窓から機外を見ますと、澄みきった青空がありその下に輝く白い雲があり、はるか下には群青の海が拡がっています。子どもの頃に数多く上映された"特撮海戦もの"のカンテン製の大海原とまったく同じに見えて、妙な気分で感心します。そのカンテンのように陽光でギラギラと照り輝いているであろう大海原が3時間経っても5時間経っても変化は無く、フィリピン群島の小さな島々の上空を通過しはじめた頃から目を離せなくなりました。海の色に溶け込んでしまいそうな淡い色の島々と濃く深い色の島々が見えます。まったく動いていないように見えるほどゆっくり流れる島々を眺めていると、淡い色の島々と濃く深い色の島々が重なって見えてびっくり驚かされます。あらためて二種の島々を見直しますと淡い色の島々は本物の島で、濃い色の島に見えたものは点在する綿雲が海上に落とした陰だったのです。

 フィリピン群島を通過してからしばらく同じ洋上の風景が続きますと、視界全体が濃緑の地表で密林と蛇行した無数の河川となります。かつてボルネオと呼んでいたカリマンタンです。海岸線ぎりぎりまで密林が迫りマングローブが繁り、小さな無人の島々もこんもりと繁り、大発(日本軍の上陸用舟艇:ダイハツ自動車の前身社製)が軽いエンジン音を響かせ白い航跡を残し、大きなフロートをつけた"下駄履き偵察機"が木陰で息を潜め羽根を休めている。太平洋戦争やベトナム戦争など、かつてそれらの映画で見たような場面が眼下に拡がっています。

 母方の伯父は少年航空兵でした。子どもの頃の記憶で伯父は使い古した黒い木製の箸を大切にしていて、南方の戦地にいた時に自分で木片をナイフで削って作ったと自慢していました。伯父が復員の時に持ち帰った品々に興味があり、従兄弟と物置蔵を探検して飛行帽や航空計器類を息を殺して手にした思い出があります。伯父は重巡足柄に司令部を置く第二南方派遣艦隊の第二十三航空戦隊に所属し、スラウェシ島(旧セレベス島)ケンダリー基地からバリ、チモール、アンボン、ジャワの島々を飛行していたと言います。

 任務は一人乗り小型水上偵察機への搭乗で、しかもオーストラリア軍の航空勢力の影響をほとんど受けていなかったので、守備地域が西はシンガポールから東はアンボイナ諸島までととてつもなく広範囲でしたが戦闘とは無縁だったと言います。戦争末期になってからジャワ島スラバヤの第二十一航空戦隊へ転属となって、台湾高雄郊外に移っていた第一航空艦隊司令部との間の連絡・輸送任務に就いていたようです。任務内容によっては一式陸上攻撃機に搭乗したようですが、主には二式飛行艇でフィリピンを経由して台湾南端水上基地東港との間を行き来していたと言います。眼下に拡がる輝く南の海と緑豊かな南の島々は、戦闘機の小窓から眺めたあの時代でもインドネシアの翼ガルーダA330の丸窓から眺める平和な今にも、まったく変わらぬ顔を見せてくれているのでしょう。

 丸窓から眺める眼下の光景は、ほとんど静止しているかのように見えます。そのほとんど変わらないような光景をぼんやりと眺めながら伯父の思い出の時代に思いを馳せていると、ついにジャワ島上空となり機内放送がジャカルタ空港にまもなく着陸すると告げました。インドネシア語と英語と日本語でアナウンスしているようですが、ほとんど同じに聞え単語でその違いをようやく聞き分けられ苦笑してしまいます。首都ジャカルタに到着した時はまん丸な燈黄色の太陽が、遠い地平線の椰子林に沈みかけるところでした。時差3時間が旅情を誘う美しい光景を見せてくれたのです。

 
 
 
 
 
 
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