"トワン・ブッサル・ミウラ" 三浦大旦那様を訪ねて2

 

 

 ワヤンさんは墓地を知っていると言ったのであって、三浦襄の墓を知っていると言ったわけではありません。この墓地内にあると思っていたに違いありません。墓地内外を必死に駆け回り、私たちもその後について汗をかきながら走ったのですが、自転車で走り回って遊ぶ子どもに聞いたり、木陰で小さな子どもを遊ばせるお年寄りに聞いたりして、ついに三浦襄の墓の在りかが判明しました。探しても見つからないのと暑さに負けて、諦めようかと思った時に、TVのルポルタージュ番組でリポーターが、発見出来ない同様の状況のときに「多分この辺りだったのでしょう」といって、お花を置いて線香に火をつけて深々と拝む姿を思い出して苦笑してしまいました。訪ね当てられて良かったと、ワヤンさんの努力に感謝しました。 

 馴染んでしまった墓地の北隣の墓寺(プラ・ダラム 鎮守の寺?)の境内に三浦襄の墓があるとのことで、行って見ると墓寺の入口に「MAKAM MIURA DJO 」と書かれた立派な案内版がありました。墓地と墓寺の間の道路は並木道になっていて、その木陰には十数台の辻馬車が休憩していました。御者たちは黄色の揃いのTシャツを着ていて、自動車のタクシーに負けないほど地元の人たちに親しまれているのが誇りなのだそうです。

 その御者たちが「日本人か」と言っているような顔をして近寄ってきました。ワヤンさんの通訳によると、御者さんたちはボランティアで三浦襄の墓を守っていてくれるのだそうです。木でも草でも何でも成長の早いこの地で、雑草を生やさないでゴミ一つ落ちていないように管理するのは大変なことだろうと思います。三浦襄を知っているかと尋ねますと日本人の偉い人だと言い、昔の人だから詳しいことは年寄りに聞かなくて分からないと言います。しかし、尊敬すべき人の墓だから大切にすると言ってくれます。

 原則として、バリ・ヒンズー教は墓を作らないようですが、キリスト教は十字架が目印になります。三浦襄の墓は中国人の墓と同じで、日本人も中国人と同じ仏教だから中国式の墓になってしまったのではないかとの説明でした。三浦襄は日本人でもキリスト教徒だと言いますと、当時は知られて居なかったのではないかと言います。しかし、三浦襄の葬式がオランダ軍とオーストラリア軍から許可された条件の一つに、キリスト教徒であったことがあります。当時の関係者が頓着しなかったのか、あるいは中国式にしなくてはならない事情があったのでしょう。

 墓参が済んで歓談した際に、ボランティアの墓守さんたちにお礼をしたいと申し出ました。しかし、チップをもらう理由が無いと言って遠慮します。そこで、めったに日本人が訪ねて来なくても日本人の墓を守ってくれているのだから、日本人としての感謝の気持ちだ。チップではなくてお布施という"宗教的な意味合いの感謝の気持ち"ということで納得してもらいました。

 
 
 
 
 
 
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